杉山 杉風 (すぎやま さんぷう、正保 4年(1647年 ) - 享保 17年6月13日 (1732年 8月3日 ))は、江戸時代 前期から中期の俳人 。蕉門十哲 の一人。通称は市兵衛、または藤左衛門。名は元雅。別号は採荼庵 、荼庵、荼舎、蓑翁、蓑杖[ 注釈 1] 、五雲亭、存耕庵。隠居して一元。
経歴
正保4年(1647年)、江戸 日本橋 小田原町の魚問屋・杉山賢永の長男として生まれる[ 注釈 2] 。家業は幕府 御用を務めた富商で、屋号は鯉屋 といった[ 1] [ 3] [ 4] 。杉風の祖父・藤道有は摂津国 今津 の人。その次男である父・賢永の代に江戸へ出て魚商として成功[ 6] 。父・賢永も仙風という俳号 を有し、俳諧を嗜む人物であった[ 6] 。
杉風は、はじめ談林派 の俳諧を学び、延宝 3年(1675年 )、菅野谷高政 が編んだ『俳諧絵合』に《幕はなし羽織剥取姥さくら》の句が入集している[ 9] 。また、延宝6年(1678年 )の岡村不卜 編『江戸広小路』、延宝7年(1679年 )の池西言水 編『江戸蛇之鮓』にも入集が確認できる[ 6] 。
寛文 12年(1672年 )の松尾芭蕉 東下の際、芭蕉は杉風(または父賢永)の家で草鞋を脱いだとされ[ 注釈 3] 、以後は芭蕉に学んだ[ 1] [ 3] [ 9] 。延宝8年(1680年 )の『桃青門弟独吟二十歌仙』では、《誰かは待つ蠅は来りて郭公 ほととぎす 》を発句とする独吟歌仙で巻頭を得ている[ 9] [ 10] [ 11] 。同年9月には、自らの句に芭蕉の判詞及び跋を得て『常盤屋句合』を刊行している[ 6] 。
採荼庵跡 (東京都 江東区 )
蕉門 における最古参格であり、芭蕉の後援者として、所有する深川 六間堀の生簀の番屋(いわゆる芭蕉庵[ 注釈 4] )を提供するなどの経済的援助を行った[ 1] [ 3] [ 14] 。
のちの『おくのほそ道 』の旅において、芭蕉が旅立った「杉風が別墅」についても、杉風が所有していた採荼庵のことであると考えられている[ 15] 。
天和の大火 による深川芭蕉庵焼失に伴って、芭蕉が甲斐 谷村藩 家老 の高山麋塒 のもとへ身を寄せていた天和 3年(1683年 )には、蕉風 発展の前駆として重要な、宝井其角 による『虚栗』の編纂に助力した[ 10] 。
篤実な性格で芭蕉の信頼を得、芭蕉からは、「去来 は西三十三国の俳諧奉行、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と戯評されたとの逸話が残る[ 9] [ 10] 。宝井其角や服部嵐雪 が蕉風の変化に従うことができなかったのと異なり、「軽み」をはじめとする師風に忠実に従った[ 1] [ 14] 。
元禄 7年(1694年 )、芭蕉の発句《紫陽花や藪を小庭の別座舗》を巻頭に、江戸蕉門の句を編んだ子珊の『別座鋪』編集に協力[ 18] 。『別座鋪』は、杉風ら深川連衆[ 注釈 5] による「軽み」の実践であったが、服部嵐雪が『別座鋪』を批判したことから、嵐雪の一派と杉風ら深川連衆の間に軋轢を生じた[ 20] 。そのころ、上方にあった芭蕉は、杉風からこのことを知らされ、杉風への手紙で、『別座鋪』の上方での評判を伝えた上、「其元宗匠共とやかくと難じ候由御とりあへ被成まじく候」などと、嵐雪らに構わないよう伝えていた[ 21] 。
しかし、両者の確執は、同年の芭蕉の死によっても解けることはなく、同じ日に、嵐雪は高野百里 ら自己の門下と、杉風は天野桃隣、河合曾良 、志太野坡 らと、別々に芭蕉追悼会を行うという状態であった[ 21] 。
芭蕉の追悼としては、杉風はこのほか、深川長慶寺に、芭蕉自筆の《世にふるも更に宗祇 のやどり哉》の短冊を埋めた芭蕉塚(時雨塚)を築き、元禄14年(1701年 )の芭蕉の七回忌に当たっては、芭蕉追慕の集として《ことの葉をこまかに慕へ冬かつら》の自句に名を取った『冬かつら』を刊行している[ 25] 。
芭蕉没後の江戸蕉門においては、宝井其角の一派、服部嵐雪の一派とは別に、蕉門の古老として第三の勢力を保った。宝永 2年(1705年 )の岱水による『木曾の谷』刊行にも協力したと見られる<。
家業は、長女のかめに迎えた婿養子(元次郎、号は随夢)に譲り、隠居後は名を一元と改め、晩年は蓑杖、蓑翁などと号した[ 4] 。
享保17年(1732年)、江戸で没。86歳(一説に76歳)。法号は釈一元居士。墓は、築地本願寺 内の成勝寺にあったが、関東大震災 後の寺の移転により、現在は世田谷区 宮坂 の成勝寺境内にある[ 6] [ 31] 。移転後の墓には、臼田亞浪 が揮毫した墓碑銘がある。
編著に、前記のほか、元禄2年(1689年 )刊の『隅田川紀行』、元禄11年(1698年 )刊の『さらしな紀行』など[ 9] [ 32] 。
門下として中川宗瑞(白兎園)がある。これを継いだ広岡宗瑞(二世白兎園)は、天明 4年(1784年 )、『杉家俳則』を編み、さらにその門下の平山梅人は、天明5年(1785年 )、『杉風句集』を編んだ[ 33] 。
杉風が描いた芭蕉像
俳諧以外においては、遠州流 の茶道 を嗜んだほか、大竜寺の和尚に禅 を、狩野昌運 に絵を学んだ[ 3] [ 6] [ 9] 。杉風が描いた芭蕉像は、写実的で、芭蕉の風貌をよく伝えるものとして高く信頼されている[ 6] 。
評価
森川許六 は、『俳諧問答』の同門評において、「杉風は二十余年の高弟、器も鈍ならず、執心もかたの如く深し。花実は実過ぎたり。」と評した
後代の俳諧師である吉川五明 は『小夜話』において、「杉風、野坡は浅くして淡し」と、三津川于当は『関清水物語』において、「杉風、野坡はこゝろひとつにして、只かるみに遊ぶ」と評した。
建部綾足 は『蕉門頭陀物語』において、「杉風は蕉門の子貢 」と評した。
村上鬼城 は、自身と同じく聴覚障害 があったとされる杉風について、大正 4年(1915年 )、『杉風論』を発表。《きのふけふ音ぞ聞ゆる春の水》など、敏感な聴覚を示した句の多さなどに注目した[ 42] 。
代表句
がつくりと抜け初むる歯や秋の風
朝顔やその日その日の花の出来
橘や定家机のありどころ
時雨づく雲にわれたる入日哉
鳴く千鳥富士を見かへれ塩見坂
襟巻に首引き入れて冬の月
春雨や鴬這入る石灯籠
ふり上る鍬の光や春の野ら
うの花にぱつとまばゆき寝起哉
痩せ顔に団扇をかざし絶し息 (絶句)
門流
採荼庵歴代[ 43]
代
名
生没年
備考
初
杉山杉風
1647年 - 1732年
二
平山梅人
1744年-1801年
三
垂井梅弟
四
太田萬里
五
鯉屋杉露
六
大沼杉舟
七
松井杉郷
八
重田石丈
登場する作品
注釈
^ (蕉門十哲 , p. 53)は「衰杖・衰翁」、『江戸名所図絵第四冊』巻之七搖光之部1753頁には「衰翁衰杖 すゐをうすいぢやう 」、『芭蕉事典』320頁には「蓑翁・衰杖」とある。初め「蓑翁」といったが、大病ののち衰えた杉風を見た芭蕉が「蓑」を「衰」にしたらよいと戯れに言い、晩年の杉風において「衰翁」を別号にしたものという(『図説江戸の芭蕉を歩く』104頁)。
^ 『杉風秘紀抜書』には「杉風本国三河 」とあるが、これは杉風の娘婿(三河池鯉鮒 生まれ)との混同による(俳諧人名辞典 , p. 127-128)
^ 芭蕉の江戸出府当初の寄寓先については、杉風とする説(平山梅人『杉風秘記抜書』、泊船居竹二坊『芭蕉翁正伝』)のほかに、小沢卜尺とする説(菊岡沾涼 『綾錦』、蓑笠庵梨一『芭蕉翁伝』)や、鳥羽屋三右衛門のち三枝主水とする説(武田村径『二書一巻聞書』)もある(「芭蕉の初期江戸寄寓一説」59頁)。
^ 深川芭蕉庵は時代により3つある。杉風が提供した生簀の番屋であった第1次芭蕉庵は天和の大火で焼失。天和3年(1683年)、山口素堂 らの働きで第2次芭蕉庵が建てられるが、元禄2年(1689年)、おくのほそ道の旅に先立って人に譲渡。元禄5年(1692年 )、杉風、枳風らによって第3次芭蕉庵が建てられた(『奥の細道の旅ハンドブック』8-10頁)。
^ 芭蕉庵のあった深川周辺には、杉風の採荼庵や、河合曾良、宗波らが集う山口素堂 の庵があり、清閑を楽しむ蕉門の一群があった(『俳人の書画美術』82頁)。
出典
参考文献
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建部綾足, 一条政昭『蕉門頭陀物語 : 附・俳家詳伝 』嵩山房、1893年。doi :10.11501/875134 。 NCID BN15047375 。全国書誌番号 :41002442 。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875134 。
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工藤寛正 『図説江戸の芭蕉を歩く』河出書房新社 ,2004
外部リンク
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