東條内閣(とうじょうないかく)は、陸軍大臣・現役陸軍大将[注釈 2]の東條英機が第40代内閣総理大臣に任命され、1941年(昭和16年)10月18日から1944年(昭和19年)7月22日まで続いた日本の内閣。
内閣の顔ぶれ・人事
省庁再編前
国務大臣
1941年(昭和16年)10月18日任命[1]。在職日数745日。
内閣書記官長・法制局長官
1941年(昭和16年)10月18日任命[1]。
職名
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代
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氏名
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出身等
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特命事項等
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備考
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内閣書記官長
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45
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星野直樹 |
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貴族院 無所属 (研究会)
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法制局長官
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42
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森山鋭一 |
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内務省
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- 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
- 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
- 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。
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政務次官
任命なし。
参与官
任命なし。
省庁再編後
国務大臣
1943年(昭和18年)11月1日任命[7]。在職日数265日(通算1,009日)。
職名
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代
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氏名
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出身等
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特命事項等
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備考
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内閣総理大臣
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40
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東條英機 |
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陸軍大将 (陸大27期)
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陸軍、軍需大臣兼任[注釈 3]
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外務大臣
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52
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重光葵 |
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外務省
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内務大臣
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59
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安藤紀三郎 |
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予備役 陸軍中将 (陸士11期)
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大蔵大臣
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44
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賀屋興宣 |
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大蔵省
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1944年2月19日免
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45
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石渡莊太郎 |
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貴族院 無所属 (研究会)
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1944年2月19日任
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陸軍大臣
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29
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東條英機 |
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陸軍大将 (陸大27期)
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内閣総理大臣、 軍需大臣兼任[注釈 3]
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海軍大臣
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22
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嶋田繁太郎 |
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海軍大将 (海大甲種13期)
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1944年7月17日免
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23
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野村直邦 |
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海軍大将 (海大甲種18期)
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初入閣 1944年7月17日任
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司法大臣
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45
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岩村通世 |
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司法省
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文部大臣
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54
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岡部長景 |
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貴族院 無所属 (研究会)
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厚生大臣
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8
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小泉親彦 |
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予備役 陸軍軍医中将
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農商大臣
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(農商省設置)
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1943年11月1日付
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1
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山崎達之輔 |
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衆議院 翼賛政治会
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1944年2月19日免
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2
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内田信也 |
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衆議院 翼賛政治会
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1944年2月19日任
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軍需大臣
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(軍需省設置)
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1943年11月1日付
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1
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東條英機 |
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陸軍大将 (陸大27期)
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内閣総理大臣、 陸軍大臣兼任[注釈 3]
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運輸通信大臣
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(運輸通信省設置)
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1943年11月1日付
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1
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八田嘉明 |
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貴族院 無所属 (研究会)
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1944年2月19日免
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2
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五島慶太 |
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民間[注釈 6]
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初入閣 1944年2月19日任
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大東亜大臣
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(大東亜省設置)
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1942年11月1日付
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1
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青木一男 |
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貴族院 無所属 (研究会)
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国務大臣
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-
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大麻唯男 |
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衆議院 翼賛政治会
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国務大臣
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-
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後藤文夫 |
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貴族院 無所属 (研究会)
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国務大臣
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-
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岸信介 |
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商工省
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国務大臣
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-
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藤原銀次郎 |
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民間[注釈 7]
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1943年11月17日任
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- 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
- 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
- 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。
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内閣書記官長・法制局長官
1943年(昭和18年)11月1日留任。
職名
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代
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氏名
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出身等
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特命事項等
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備考
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内閣書記官長
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45
|
星野直樹 |
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貴族院 無所属 (研究会)
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法制局長官
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42
|
森山鋭一 |
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内務省
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- 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
- 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
- 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。
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政務次官
任命なし。
参与官
任命なし。
勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き
発足時
前の内閣総理大臣である近衛文麿は、中国大陸および仏領インドシナからの日本軍の撤兵やドイツおよびイタリア王国との日独伊三国同盟からの脱退などを要求するアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領(民主党政権)と、これに反対する陸軍との板挟みとなり、事実上の改造内閣である第3次近衛内閣の発足後3ヶ月で東條英機陸相と決裂して閣内不一致となり、これを受けて後継内閣が模索される最中に一方的に内閣を放棄した。
後継内閣には、近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。昭和天皇は、「陸軍・海軍が平和の方針に一致するのであれば」という条件で東久邇宮首班を承認する。しかし、木戸幸一内大臣が東條に確認したところ、東條はあくまで新首相に下駄を預ける考えを示した。そのため木戸が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として東久邇宮首班に反対し、あらためて重臣会議に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條に組閣の大命が降ることとなった。東久邇宮はのちの終戦後の1945年8月17日に、首相に就任することとなる(東久邇宮内閣)。なお東條は総理就任に時を合わせて陸軍大将に昇進するが、『中将昇進から最低5年を経なければ大将昇進の資格を得られない』という進級基準からして異例の措置でもあった。
東條は首相以外にも陸軍大臣・内務大臣等の兼ねて絶大な権力を一手に握り、「東條幕府」と揶揄された。組閣の大命を拝受するにあたって昭和天皇から「対米交渉の継続」を示唆された[注釈 8]東條は、その意を体して交渉派の東郷茂徳を外務大臣に起用するなどしており、東條による3ポスト兼任も、日米交渉が日本の譲歩によって妥結した場合に予想される社会の動揺を警察と陸軍の力で抑え込むためであるとする見方がある[8]。陸相の兼摂は木戸の提案であり、対米交渉妥結時に大陸からの撤兵を確実に実施させる意図による。
海軍は海軍大臣に豊田副武を推薦したが、豊田の反陸軍的な姿勢に懸念を示す東條が、天皇による陸海軍協力の命を盾にとって拒否した。軍からの軍部大臣の推薦が拒まれたのは異例なことであったが、海軍内で影響力が大きかった伏見宮博恭王(元帥)も豊田の推薦には苦言を呈していたこともあり、海軍は折れて、及川前海相が嶋田繁太郎を推薦しなおした。
発足後
彼我の海軍力の差を知る海軍は対米戦争回避派が主流であったが、嶋田海相は「海相一人が反対して戦機を逸するのはよくない」として「対米開戦派」に同調する。だが東郷外相は着任早々に外務省内の親独派を更迭して対米交渉推進論で外務省をまとめた。さらに日本が近衛首相という「文民政権」から、東條首相兼陸相という戦争の開戦に向けた「軍事政権」への切り替えが行われたと、当然ながらイギリスやアメリカなどの民主主義国家に受け止められた。
さらに、名目上は当時のコーデル・ハル国務長官によるが、実際は後にヴェノナ文書の公開で発覚したアメリカ合衆国政府内部に潜伏しソ連(コミンテルン)のスパイとして諜報活動もしていたハリー・ホワイト財務次官補(ヘンリー・モーゲンソー財務長官の部下の一人)によって書かれたハル・ノートを、アメリカ政府による日本政府への「最後通牒」と勝手に受け取ることで対米交渉を断念し、東條内閣は開戦論に転向した。これにより東條内閣は対アメリカ合衆国、イギリスおよびオランダ等連合国への開戦に固まった。
日本時間12月8日の英領マレー侵攻および真珠湾攻撃による開戦後ほどなく、昭和天皇の名により「米国及英国ニ対スル宣戦の詔書」が渙発され、東條首相は「大詔を拝し奉りて」と題してラジオ放送を通じて日本国民に向かって決意を表明した。また、4日後の同年12月12日の閣議決定において、第1次近衛内閣以来すでに戦闘を行っていた日中戦争(支那事変)も含めて、対連合国との戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。
その後、開戦の翌年に第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)を実施するにあたり、東條は兼任していた内相を退任し、後任として生え抜きの内務官僚である湯沢三千男が就任した。
さらに戦時体制強化のため、大東亜省・軍需省をはじめとする省庁再編、人材登用、中央集権化を行った。東條自ら軍需大臣を兼任した結果、商工大臣だった岸信介(戦後に首相も歴任)は国務大臣兼務のまま軍需次官に異例の「格下げ」となった。一時は陸軍省・海軍省を解体し、「国防省」に再編する構想まであった。その中で、大東亜省設置に反対して東郷外相が辞任したため、後任の谷正之が就任するまで外相を兼任。さらに東京都制と市町村長の官選導入を柱とした市制・町村制改正に関わる帝国議会の審議過程で、翼賛政治会の反感を買った湯沢内相が更迭に追い込まれるなど、その政権基盤は日本軍の敗退・戦局悪化とともに弱体化していった。一方で東條は、作戦への指導力を高めるため、統帥権干犯の疑義を越えて参謀総長をも兼任する。しかし然したる実効力はなく、かえって「東條幕府だ」と東條批判を増すばかりであった。
一方で首相経験者などの重臣たちと、昭和天皇の実弟の一人である高松宮宣仁親王海軍大佐らを中心とした皇族グループ(重臣の近衛文麿は皇族ではない華族であったが摂家の筆頭であり公爵で、立場的に皇族に準じる)による倒閣工作が水面下で進行していく。対抗して東條は、重臣の閣僚起用で乗り切りを図る。
しかし、マリアナ沖海戦とそれに伴うサイパン陥落によりアメリカ軍による本土爆撃(日本本土空襲)が容易になったことから、岸信介国務大臣(軍需次官)が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言し、「ならば辞職せよ」という東條首相の要求を岸が拒絶したため閣内不一致となり[9]、1944年(昭和19年)7月9日のサイパン陥落の責任を取る形で7月18日に東條内閣は総辞職した。後継には小磯國昭が首相に就任し、小磯内閣が成立した。
事績
総力戦遂行のために、1942年(昭和17年)に一般国民動員と国家補償を規定した法律「戦時災害保護法」が制定され、法第23条で住宅・家財の給与金、法第24条で療養、障害、打切(切断)、遺族葬祭の給与金が規定された。
これらは敗戦後の1946年(昭和21年)9月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により廃止された[10]。
脚注
注釈
- ^ 前の第20回衆議院議員総選挙が行われたのは1937年(昭和12年)4月30日であったため、本来の任期は1941年(昭和16年)4月30日までであった。しかし、1年間任期延長したため、1942年(昭和17年)4月30日に任期満了を迎え、同日、第21回衆議院議員総選挙の投票が行われた。
- ^ 大命降下時の階級は陸軍中将。内閣発足当日の10月18日に大将に昇進。
- ^ a b c d e f g h i 首相就任時から1942年(昭和17年)2月17日まで内相、陸相を兼任。内相兼任を免じられた後、同年9月1日から17日まで外相、陸相兼任。外相退任後、翌1943年(昭和18年)4月20日から23日まで陸相、文相兼任。文相兼任を解かれた後、同年10月8日から陸相、商工相兼任し11月1日から省庁再編により陸相、軍需相兼任。
- ^ 大東亜省設置に反対し、外相辞任。
- ^ 東京帝国大学医学部教授。
- ^ 東京急行電鉄社長。
- ^ 王子製紙会長。
- ^ 9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では「10月上旬頃までに対米交渉がまとまる見込みがなければアメリカに対して開戦すること」を規定していたが、昭和天皇は「これを白紙に戻して再検討すること」を命じた(白紙還元の御諚)。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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第3次近衛内閣 |
東條内閣 1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月22日 |
小磯内閣 |
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名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 カテゴリ |