松平慶憲
松平 慶憲(まつだいら よしのり)は、江戸時代後期の大名。播磨国明石藩9代藩主。官位は従四位上兵部大輔、左近衛権中将。直良系越前松平家10代。 生涯文政9年(1826年)、7代藩主・松平直韶の長男として江戸藩邸にて誕生。幼名は濤次郎。文政10年(1827年)、父・直韶は11代将軍・徳川家斉より自身の二十六男・周丸(ちかまる、後の8代・斉宣)を養嗣子として強要され、翌文政11年(1828年)に周丸が明石藩の世嗣となる。文政13年(1830年)、母・至誠院は実子の濤次郎が次期藩主となれず苦悶のうちに死去する(一説に自殺)。天保9年(1838年)、元服し、父・斉韶(直韶)より直憲(なおのり)と名付けられる。 弘化元年(1844年)4月、8代藩主・斉宣が病気重篤になり、急遽、世嗣となる。6月2日に斉宣が死去し、7月17日に家督を相続する。8月15日、12代将軍・徳川家慶に初めて御目見する。翌月、家慶の偏諱を授かり慶憲と改名する。従四位下に叙され、兵部大輔に任官する。弘化4年(1847年)、侍従に任官する。嘉永5年(1852年)、奥平昌高の十一女・鍼姫と婚姻する。 嘉永6年(1853年)、外国船の来航が頻繁になったため、明石海岸に12箇所の砲台を築く。ペリーが浦賀に来航し、明石藩は品川警備を命じられる。翌安政元年(1854年)、明石藩、神奈川の警備を担当する。安政3年(1856年)、鍼姫と離婚する。この年、左近衛権少将に任官する。文久元年(1861年)、従四位上に昇叙する。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に参陣する。左近衛権中将に任官する。翌慶応3年(1867年)、長州征討より帰参。幕府より京都警備を命じられる。明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いには幕府方として参陣したが遅参し、大坂城にあった15代将軍・徳川慶喜の救出が出来ず明石に引き返す。明石城に官軍の山陽鎮撫使が進軍したため、本家筋の前福井藩主松平春嶽の取り成しで恭順の意を表し、城を明け渡す。官軍に従軍し姫路まで進軍する。戊辰戦争に参戦し、藩兵を越後方面へ派兵する。この年、藩校・敬義館が開かれる。 明治2年(1869年)に隠居し、家督を長男・直致に譲る。明治3年(1870年)、鶴雲と号する。明治17年(1884年)、直致が病没し、次男・直徳が家督を継ぐ。この年、華族令制定により直徳が子爵となり華族に列する(のち貴族院議員)。明治30年(1897年)死去。 官歴日付は旧暦。
系譜
参考文献
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