柚木沙弥郎柚木 沙弥郎(ゆのき さみろう、1922年[1](大正11年)10月17日 - 2024年[1](令和6年)1月31日[2][3][4])は、日本の染色工芸家。 「民藝運動」の提唱者である柳宗悦の影響を受け[1]、染色工芸家・芹沢銈介に師事し、染色工芸家となる[1]。染色以外にも版画や絵本、切り絵や立体造形物を制作し、民藝運動にも大いに携わった[1]。 女子美術大学名誉教授。女子美術大学第7代学長(1987年4月から1991年3月)を歴任[5]。 経歴1922年[1](大正11年)10月17日、東京府東京市滝野川区(現在の東京都北区)田端で洋画家の柚木久太の次男として生まれる。柚木家は岡山県倉敷の旧家であり、祖父の柚木玉邨は南画家として活躍した。 1942年(昭和17年)、東京帝国大学文学部美学・美術史科に入学。同級生には柳宗玄がいた。 1943年(昭和18年)、学徒動員される。1945年(昭和20年)静岡県の大井海軍航空隊で終戦を迎え、父親の郷里・倉敷に復員した。 1946年(昭和21年)、岡山県にある「大原美術館」に勤務[1]。初代館長・武内潔真から「民藝運動」の提唱者である柳宗悦の著書を自由に借りて読んだ。芹沢銈介の和紙型染カレンダーに[1]魅せられ感銘を受け、染色家を志した[1]。 1947年(昭和22年)、大原美術館を退職し東京帝国大学に復学したが、のちに中途退学した。そして芹沢に弟子入りし[1]、修行の一環として静岡県由比町(現在の静岡市)の正雪紺屋に住み込み、染色の技法を学んだ。 1948年(昭和23年)、初作品「紅型風型染布」を制作した。 1950年(昭和25年)、女子美術大学工芸科専任講師に就任し、芹沢主宰の染色家集団萌木会に入会。1953年(昭和28年)には国画会会員となる。 1955年(昭和30年)、東京銀座のたくみ工芸店画廊で初の個展を開催し、以後個展やグループ展を多数開催している。 1967年(昭和42年)にはヨーロッパを歴訪。1972年(昭和47年)女子美術大学教授に就任。1984年(昭和59年)、日本民藝館評議員に就任。 1987年(昭和63年)、女子美術大学・女子美術短期大学の第7代学長に就任。1991年(平成3年)に退職。 2023年(令和5年)に100歳を超えても染色を続けていた[6]。 2024年(令和6年)1月31日、東京都渋谷区の病院でうっ血性心不全のため死去した[7][2][3][4]。101歳没。 受賞歴
脚注
参考文献
関連文献
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