津島神社
津島神社(つしまじんじゃ)は、愛知県津島市にある神社。京都・八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社として知られる[1]。 概要建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀る。伝承では欽明天皇元年(540年)の創建とされる[2]。実際の創建時期ははっきりしないが、12世紀の文献に現れ、鎌倉時代から室町時代にかけての鉄灯籠や梵鐘の銘には社名が刻まれている[3]。近世以前は牛頭天王を祭神として祀る神社として知られた[3]。 近世には織田氏や豊臣氏の庇護を受けて社殿造営等の寄進を受けた[3]。さらに尾張藩からも神領所有の特権を得るとともに、津島神社の川祭りで寄進米などを受ける特権が与えられた[3]。 当社は東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰という。津島神社が諸国に勢力を拡大した背景には、御札を配って祈祷を行う津島御師の活動が大きく、織田信長は御師の布教活動を保護し、尾張藩もこの保護政策を継承して他領での布教活動に許可を与えた[3]。 明治の神仏分離令までは「津島牛頭天王社」とも称された[2]。 歴史尾張国津島社(後の津島神社)は式外社で正確な成立時期は不明である[3][4]。伝承では欽明天皇元年(540年)の創建とされる[2]。津島神社所蔵の天文9年(1540年書写の『牛頭天王講式』によると、日本に渡った牛頭天王は孝霊天皇の代に対馬から西国に渡来し、欽明天皇の代に四神相応の霊地として尾張国海部郡門真荘津島に垂迹したという[4]。しかし、先述のように延喜式神名帳には記載されていない式外社で国史にも現れない。年代が明確な史料では、名古屋七寺所蔵の一切経のうち承安5年(1175年)の正月から七月までに書写された『大般若経』巻末の摺写勧請文に津島社の記載がある[4]。 16世紀頃には津島衆と呼ばれる四家七党の同族の社家組織によって運営され、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの援助を受けた[4]。その後、尾張藩の庇護を受けて氷室家を神主とする社家組織が確立された[4]。正保4年(1647年)4月には尾張藩主徳川義直から津島向島1293石8升9合の朱印状を受け、この社領は寛文5年(1665年)に将軍の徳川家綱により朱印地として認められた[3]。 津島社の信仰は社家やその手代が御師(津島御師)として各地で布教活動を行い、その信仰を受け入れた村人は旦那、旦那が所在する村は旦那場と称された[3][4]。 明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社としたが、いまも「津島の天王さま」と呼ばれ、全国約3000社の天王信仰の総本社である[5]。明治6年(1873年)に県社に列格し、大正15年(1926年)に国幣小社に昇格した。 神社のすぐそばに天王川公園がある。公園の中央には楕円形の「丸池」があるが、これはかつて津島神社と門前町の間を流れた天王川の名残である。かつての天王川は木曽川左派川末端部の大河川であり、津島神社前に架けられた「天王橋」は長大な橋であったことが宗長の『宗長手記』に記されている。江戸時代となり木曽川に御囲堤が築かれると、天王川と下流の佐屋川は河床上昇により水害が増加した。その対策として日光川が開削されたことで天王川は津島神社付近で築留めされたため入り江状となり、明治に行われた木曽三川分流工事で佐屋川も廃川となったため楕円形の池が残された。牛頭天王は排斥されたが、今も「丸池」で行われる神社の祭りは尾張津島天王祭として「天王」の名が残っている。 1970年(昭和45年)11月23日、神社近くの民家から出火、折からの強風で神社本殿の檜皮葺屋根に飛び火した。懸命な消火活動が行われたが、屋根部分を全焼する被害[6]。 主な年中行事津島神社の祭事は年間100を超える[1]。
境内外社境内摂社
境内末社
境外末社
文化財重要文化財(国指定)
重要無形民俗文化財(国指定)
愛知県指定有形文化財愛知県指定天然記念物
交通関連図書
脚注
関連項目外部リンク
Information related to 津島神社 |