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浅水城

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浅水城
青森県
別名 四戸城?
城郭構造 平山城
築城主 不明、四戸氏?
築城年 不明
主な城主 四戸氏、工藤氏、南部氏
廃城年 1631年(寛永8年)
遺構 曲輪
指定文化財 史跡等未指定[1]
埋蔵文化財
包蔵地番号
県№442046[2]
位置 北緯40度28分29.0秒 東経141度17分41.1秒 / 北緯40.474722度 東経141.294750度 / 40.474722; 141.294750座標: 北緯40度28分29.0秒 東経141度17分41.1秒 / 北緯40.474722度 東経141.294750度 / 40.474722; 141.294750
地図
浅水城の位置(青森県内)
浅水城
浅水城
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浅水城(あさみずじょう)は、青森県三戸郡五戸町にあった日本の城。四戸城の候補地。浅水川左岸の丘陵に位置し[3]曲輪は本曲輪、二の曲輪、三の曲輪からなる。浅水川を挟んだ対岸には浅水館、工藤屋敷と呼ばれる城館があった[2]

沿革

築城時期は不明。初め四戸氏がいたと推測される(またはこの地に入部したことから四戸姓を名乗ったとも)。一時、謀反を起こした工藤氏の一族の居城となるが天文1532年-1555年)年間に南部氏との抗争に敗れ、その後、戦国期には三戸南部氏の支配下となった。

三戸南部22代政康の三男長義は五戸と浅水を知行して浅水氏と名乗ったが、三戸城の南側に屋敷があったため、南殿と称された(現地案内標識[4]にはこのころ永正年中(1504年-1520年)の築城と記載)。永禄年間(1558年-1570年)の南部一族内訌のさい、信直派に属し反晴政派となったため、南部晴政の攻撃をうけた。

南氏3代盛義のころ、天正19年(1591年九戸政実の乱において、櫛引氏の攻撃を受けたがこれを撃退し敗走させるが、櫛引氏を深追いした盛義は法師岡館付近で壊滅、討死した。その後は弟の直義が継ぐ。

寛永8年(1631年)に南氏5代南部利康(南部宗家より養子として入城)が24歳にて没し、廃城となった[5]とされる。

2021年令和3年)現在は八幡宮となっており、参道は途中分岐し寶福寺に続く。

地理

青森県道142号倉石五戸線が、青森県道233号浅水南部線に合流する箇所に存在する。青森県道233号浅水南部線は国道4号以前の陸羽街道であり、その南端には本三戸城とされる聖寿寺館ならびに最後の城主・利康の霊廟がある。古陸羽街道は県道より東側、浅水城に隣接する寶福寺前で青森県道233号浅水南部線に合流し、城の東北東300メートルの地点から山際を北上、五戸の中心部へと至る。もし仮に浅水城が四戸城であるとした場合、本三戸城・四戸城・五戸城(詳細地不明)が古街道沿いにほぼ一直線に並ぶことになる(さらに一戸から六戸までが番号順に並ぶ)ため、四戸城の候補として有力である。

一方、浅水川を下るのと並行し国道454号を東にたどると根城に至る。浅水城より約3キロメートルほど下った南岸丘陵に野沢(ぬさ)城跡(現在は稲荷宮)があり、こちらの築城は文明年間(1469年-1486年)南部重義とされる[6]国道4号がなければ互いに見通せる距離となる。

脚注

  1. ^ 「国・県・町文化財」五戸町公式HP
  2. ^ a b 「青森県遺跡地図」青森県公式HP
  3. ^ (地図閲覧システム) 国土地理院
  4. ^ 設置者林野庁・青森県
  5. ^ 現地の案内標識による。設置者林野庁・青森県
  6. ^ 現地案内標識、五戸町教育委員会設置

参考資料

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4-04-001020-5 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』平凡社、2002年6月。ISBN 4-582-91021-1 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 

関連項目

Information related to 浅水城

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