浅水城
浅水城(あさみずじょう)は、青森県三戸郡五戸町にあった日本の城。四戸城の候補地。浅水川左岸の丘陵に位置し[3]、曲輪は本曲輪、二の曲輪、三の曲輪からなる。浅水川を挟んだ対岸には浅水館、工藤屋敷と呼ばれる城館があった[2]。 沿革築城時期は不明。初め四戸氏がいたと推測される(またはこの地に入部したことから四戸姓を名乗ったとも)。一時、謀反を起こした工藤氏の一族の居城となるが天文(1532年-1555年)年間に南部氏との抗争に敗れ、その後、戦国期には三戸南部氏の支配下となった。 三戸南部22代政康の三男長義は五戸と浅水を知行して浅水氏と名乗ったが、三戸城の南側に屋敷があったため、南殿と称された(現地案内標識[4]にはこのころ永正年中(1504年-1520年)の築城と記載)。永禄年間(1558年-1570年)の南部一族内訌のさい、信直派に属し反晴政派となったため、南部晴政の攻撃をうけた。 南氏3代盛義のころ、天正19年(1591年)九戸政実の乱において、櫛引氏の攻撃を受けたがこれを撃退し敗走させるが、櫛引氏を深追いした盛義は法師岡館付近で壊滅、討死した。その後は弟の直義が継ぐ。 寛永8年(1631年)に南氏5代南部利康(南部宗家より養子として入城)が24歳にて没し、廃城となった[5]とされる。 2021年(令和3年)現在は八幡宮となっており、参道は途中分岐し寶福寺に続く。 地理現青森県道142号倉石五戸線が、青森県道233号浅水南部線に合流する箇所に存在する。青森県道233号浅水南部線は国道4号以前の陸羽街道であり、その南端には本三戸城とされる聖寿寺館ならびに最後の城主・利康の霊廟がある。古陸羽街道は県道より東側、浅水城に隣接する寶福寺前で青森県道233号浅水南部線に合流し、城の東北東300メートルの地点から山際を北上、五戸の中心部へと至る。もし仮に浅水城が四戸城であるとした場合、本三戸城・四戸城・五戸城(詳細地不明)が古街道沿いにほぼ一直線に並ぶことになる(さらに一戸から六戸までが番号順に並ぶ)ため、四戸城の候補として有力である。 一方、浅水川を下るのと並行し国道454号を東にたどると根城に至る。浅水城より約3キロメートルほど下った南岸丘陵に野沢(ぬさ)城跡(現在は稲荷宮)があり、こちらの築城は文明年間(1469年-1486年)南部重義とされる[6]。国道4号がなければ互いに見通せる距離となる。 脚注
参考資料
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