児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、日本の歴史学者。学位は、文学博士。学習院大学名誉教授。学習院大学学長・学習院女子短期大学学長を歴任。品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた。
経歴・人物
- 出生から学生時代
1909年、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市稲荷山)生まれ。
旧制東京府立第二中学、旧制成蹊高等学校[1][2]を経て、東京帝国大学国史学科に入学。児玉が少年期を過ごした故郷の稲荷山町は、江戸時代の善光寺街道最大の宿場町として栄え、明治期までは商都としても栄えた街であった。その最大の理由は、善光寺街道として知られる北国街道と北国西街道の事実上の合流点であり、善光寺街道から谷街道が分岐する交通の要衝であったためである。そういった自身の生い立ちの影響もあって、東京帝国大学文学部国史学科の卒業論文は「近世初期における農村の発達」[3]であった。
1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学を卒業し[2][4]、同大学大学院に進学。
- 卒業以降
1934年、東京帝国大学大学院を満期退学。同年に第七高等学校造士館教授に就いた[5]。1938年(昭和13年)4月、学習院教授に転じた[6]。学習院大学では史学の教育・研究に尽力。1945年には、皇后宮御用掛、東宮職御用掛、宮内府御用掛。
- 戦後
1948年より学習院中等科長を務める。1949年に新制大学として学習院大学が開校すると、1950年3月より学習院大学教授を兼務した。1961年3月、学位論文『近世宿駅制度の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得[2][7]。1961年に、文学部史学科が設置されると、その主任も務めた[8]。
1962年、学習院女子短期大学学長に就任。1973年からは学習院大学学長を務めた。1980年3月に学習院大学を定年退職し、名誉教授となった。その後は、品川歴史館館長、江戸東京博物館初代館長(1993年 - 1996年)をつとめた[6]。
2001年12月の敬宮愛子内親王生誕の「命名の儀」に先立ち、新宮の文運と健康を願って行われる皇室儀式「浴湯(よくとう)の儀」に91歳の高齢で、束帯姿の「読書役(とくしょやく)」として臨んだ。儀式は12月7日午前宮内庁病院内で行われ、新宮が浴殿に参入すると、鳴弦の中『日本書紀』の一節を朗読した[9]。
学界では、1996年、日本学士院会員に選出された[10]。1987年より日本歴史学会会長。また、地方史研究協議会会長、交通史研究会会長も務めた[6]。2007年、多臓器不全のため東京都武蔵野市で死去。
受賞・栄典
研究内容・業績
- 近世史研究
1947年に初の著書となる『江戸時代の農民生活』以降、近世史のなかでも近世の「農村」や「交通」に着目して研究を進め、交通史や農村史の分野の研究を進めた。学習院大学で教鞭を執ったことから昭和天皇や明仁上皇などに日本史を講義するなど、皇室とも深い関わりを持った。近世史を専攻した今上天皇徳仁はゼミの教え子であった。
- 教科書ならびに一般普及書
日本書籍株式会社の中学校用歴史教科書の執筆者をつとめていた。また、青少年のための学習漫画『少年少女日本の歴史』(小学館刊行)などの執筆・監修者であったことで一般には良く知られている。くずし字解読辞典など工具書の執筆も手掛けた。
家族
著作
- 単著
- 共編
- 編纂
- 『くずし字解読辞典』近藤出版社 1970、東京堂出版 1993
- 『近世史ハンドブック』近藤出版社 1972
- 『天皇 日本史小百科』近藤出版社 1978、東京堂出版 1993
- 『くずし字用例辞典』近藤出版社 1981、東京堂出版 1993
- 『常用漢字行草辞典』東京堂出版 1993
- 『漢字くずし方辞典』東京堂出版 1993
- 『御当家紀年録 訳注日本史料』集英社 1998
- 『宿場 日本史小百科』東京堂出版 1999
- 『日本交通史〈新装版〉』吉川弘文館 2018、ISBN 9784642083478
- 監修
- 記念論集
- 児玉幸多先生古稀記念会 編『日本近世交通史研究』吉川弘文館、1979
- 児玉幸多先生古稀記念会 編『幕府制度史の研究』吉川弘文館、1983
- 吉川弘文館『日本歴史』2007年12月号 No.715:歴史手帖・児玉先生を偲ぶ
- 記念展示
- 没後10年児玉幸多—歴史学に捧げた生涯展, 学習院大学史料館, 2017年6月26日~7月7日
児玉幸多に関する参考資料
脚注
注釈
出典