浅葉 克己(あさば かつみ、1940年3月18日 - )は、アートディレクター。日本グラフィックデザイン協会(JAGDA)五代目会長。東京タイプディレクターズクラブ会長。
広告、タイポグラフィ制作の第一人者。ライトパブリシティ出身。卓球六段。
神奈川県横浜市金沢文庫に生まれる。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を卒業後、友人の父親の紹介で[2] 伊勢佐木町の松喜屋百貨店(後のピアゴイセザキ店)宣伝部に入り広告制作や内装に携わる。そこでの先輩の紹介で5年ほど[3][4]佐藤敬之輔タイポグラフィ研究所において文字設計を学ぶ[5]。1年勤めた後[6]、桑沢デザイン研究所リビングデザイン科基礎コースに入る。
1964年ライトパブリシティに入社、東レ、キユーピーマヨネーズなどの仕事で注目を集める。1975年浅葉克己デザイン室を設立。以降、アートディレクターとして、数多くの名作コマーシャル、ポスターを制作する。
1987年、東京タイプディレクターズクラブ(TDC)を設立。会長(現理事長)として同クラブを運営する傍らアジアの文字文化に着眼、文字と視覚表現のかかわりを追求する過程で中国の少数民族ナシ族に伝わる象形文字トンパ文字と出会う。1999年「中国麗江国際東巴(トンパ)芸術祭」の招待作家として現地で個展を開催。この時のグラフィックデザインは2000年東京ADC会員賞を受賞した。また、言語学者西田龍雄との共同作業でDVD『What's TOMPA』を制作するほか、トンパ文字に関連した書籍も多数出版している。2008年には、東洋占術家真矢茉子が麗江で発見したトンパのタロットカードと合わせて、トンパ文字研究の集大成ともいえる「トンパのアサバイブル」[7](宣伝会議)を出版した。
2006年に開催された世界的なグラフィックデザイナーの組織AGIの日本大会では実行委員長を務め、国境を越えた150名の参加者のクリエイティブな交流会を成功に導いた。2007年に設立20周年をむかえた東京TDCは、国内のみならず、オーストラリア、韓国、台湾などで国際展を開催し、2005年に就任したデザインアソシエーション会長としても、東京デザインウィークやミラノサローネのデザインワークにも参加するなど、活躍の場を世界に広げている。近年、中国、韓国、台湾などアジア諸国からの講演、審査依頼も多い。 2007年11月の多摩川アートラインプロジェクトでは、代表として実行委員も務め、大田区の新田神社に自らのデザインによる石の彫刻「LOVE神社」を設置した。
2008年7月には「21_21 DESIGN SIGHT」(東京ミッドタウン)で世界の文字にまつわる作品を集めた「祈りの痕跡。展」をディレクション。“文字とは「伝えたい」という祈りにも似た人間の強い思いの究極の形である”という展覧会のテーマが、「文字を書くという行為について改めて考えさせられる」(朝日新聞)など、各方面より高い評価を得た。この時に出品した壁一面の自身の日記が、後に[21_21 DESIGNSIGHT「祈りの痕跡。展 浅葉克己日記」の空間とグラフィックデザイン]で2009東京ADCグランプリを受賞。受賞理由に、「あらゆるところでタイポグラフィックデザインそのものを発言してきた集大成。展覧会としてもすばらしい企画。」「一番面白いところは、完成した作品と現場の日記とそのアイデアスケッチがあって、それが対比されていること。発想の原点を全部開陳してしまっている。その覚悟を評価したい。」「手で書いていくことの力を強く感じる。日記という別な形で定着されていることにハッとさせられる。」など。
2009年第16回神奈川国際芸術フェスティバル「明日への祝祭!」において、「デザインの港。-浅葉克己展。」(神奈川県民ホールギャラリー)を開催。 2009年7月、核兵器廃絶を内外に訴えるポスター「ヒロシマ・アピールズ」(日本グラフィックデザイナー協会、広島国際文化財団制作)の12作目2009年版を発表。「忘れてはならない時刻、815。」のタイトルで、針の飛んだ懐中時計をモチーフに平和への祈りを表現した[8]。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で民主党が圧勝し、第一党となったことにより、ロゴマークの制作者として注目を集める。[1]。1998年の発表時の制作意図は次の通り。「二つの円は、「民の力」の結合の象徴を表している。下側の円の輪郭線ががたがたになっているのは、円がみなぎる力で動いたり、育ったりして、生命体のように成長しつつ、融合して新しい形を生み出す様子を表しており、二つの円の形は無限大 ∞ の意味も含んでいる。」
2010年7月、前年に引き続き神奈川県民ホールギャラリーで開催された「デザインの港2。浅葉克己展」では、東洋的核なもの・西洋的核なもの・宇宙的核なものをテーマに、惑星物理学者である松井孝典の協力によるポスターや、親友・三宅一生の新しいプロジェクト(衣服「132 5. ISSEY MIYAKE」、照明器具「IN-EI ISSEY MIYAKE」)のロゴマーク等を発表し注目を集めた。
2016年11月、自身が会長を務める東京デザインウィークにおいて、火災による死亡事故が発生。翌年度以降は開催されていない。
2020年夏季オリンピックのエンブレムのデザイン選考では当初の審査員を務め、佐野研二郎の作品を選出[9][10]。
卓球は趣味の域を超える。カメラマンの十文字美信との出会いがきっかけで[11]1975年にクラブチーム「東京キングコング[12]」を結成。全国大会に出場したこともある腕前である。
1987年に当時の国際卓球連盟会長だった荻村伊智朗に請われて、日本卓球協会が立ち上げた卓球イメージアッププロジェクト『卓球の明日を考える会』に参加し、浅葉は「卓球台をブルーにして、ピンポン球を黄色にしてみたらどうだろう?」というアイデアを出した[13]。これが現在のカラフル卓球台登場など、一連の卓球イメージアップ作戦の展開へと繋がって行く。日本卓球協会評議員。浅葉が審査員を務めた第11回世界ポスタートリエンナーレトヤマ2015では青い卓球台に白いボールで卓球の世界を端的に表現した「世界卓球2015」のポスターを銀賞に選んだ。 卓球の専門誌卓球王国に、エッセイ「ひとりピンポン外交」を連載中。北朝鮮[14] やモンゴル[15] にも卓球をしに行っている。北朝鮮を撮影した写真集『隣人。38度線の北』のアートディレクションも担当した。
書道家の町春草や石川九楊に弟子入りしたことがある[16]。
伊坂芳太良との関係性