湯浅一郎
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日(1869年1月30日) - 昭和6年(1931年)2月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。 経歴明治元年12月18日(1869年1月30日)、安中で醤油味噌の醸造販売を行う「有田屋」の長男として生まれる[1]。 同郷の新島襄が開校した同志社英学校(現・同志社大学)を明治20年(1887年)に卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。明治29年(1896年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されると黒田清輝の推薦を受け3年生に編入し明治31年(1898年)7月卒業[2]。卒業後は東京美術学校の研究生として学校に残った。 明治29年(1896年)に白馬会が黒田清輝らによって結成されると、その展覧会に第1回から第10回まで欠かさず作品を出展している。明治34年(1901年)第6回白馬会展で黒田清輝の『裸体婦人像』の下半分が布で隠される「腰巻き事件」が起きた際は、湯浅の作品『画室』も下半分を布で覆われる処置を受けた。明治36年(1903年)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に同作品が出展されるにあたっては、黒田の助言によって布を書き加えている[3]。 明治34年(1901年)出版の白馬会絵画研究所編による『美術講話』ではその装丁を行い、明治35年(1902年)に叔父湯浅吉郎が詩集『半月集』を出版すると、その表紙・裏表紙・口絵の装丁を手がけている[4]。 明治38年(1905年)11月、ヨーロッパへの私費留学に出発する[5]。ジブラルタル経由でスペインに渡り、アルヘシーラス、グラナダ、セビリアに滞在した後、マドリードのプラド美術館ではいくつかの作品を模写している[6]。明治39年(1906年)に特にディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』については「これを見たいためにまずスペインに行ったのであった。この部屋に入ったときは、これを見ればほかに絵を見る必要がないとまで思わせた」と語っている[6]。スペインに1年半近く滞在した後、明治40年(1907年)の夏からパリ、モンパルナスのカンパーニュ・プリミエール通りに滞在を始める。同じ宿にはマドリード滞在中の湯浅を訪問した山下新太郎が滞在しており、翌年から同じ通りにアトリエを構えた高村光太郎は「湯浅氏は六畳敷位の光線の馬鹿に好い室に籠城している」(「出さずにしまった手紙の一束」『スバル』1910年7月)と記述している[7]。 パリ到着後、明治40年7月から生巧館画塾以来の友人であった藤島武二とともに、ロンドン、ブリュッセル、ハールレム、ポツダム、ドレスデン、ウィーン等を回る。途中野口駿尾、武石弘三郎、東勝熊などと同道し、9月にパリに戻った[8]。明治41年(1908年)の第2回文展にはパリで制作した『イスパニア国風景』を出品した[6]。 明治42年(1909年)10月から11月にかけてイタリアのフィレンツェ、ローマ、ナポリなどを回った後エジプトのカイロに2週間余り滞在した後、12月9日に帰国の途につき、翌年1月、4年間に及んだ海外留学を終え無事帰国した[9]。 大正2年(1913年)、朝鮮ホテルの壁画制作を山下新太郎とともに依頼され、同年朝鮮へ旅行している[10]。 大正3年(1914年)には二科会の結成に参加。同年の第1回二科展から没後に遺作が出展された第18回二科展まで毎年作品を出展している。 昭和4年(1929年)には明治神宮聖徳記念絵画館に壁画番号67『赤十字社総会行啓』を納入している[11]。 昭和6年(1931年)2月23日午前6時15分、胃癌により死去。葬儀は霊南坂教会で営まれた[12]。 家族湯浅一郎は妻2人と死別し、生涯に3度の結婚を経験している。
主な作品
その他、新島襄の肖像画(安中教会)を描く。 脚注
参考文献関連項目 |