濱田庄司
濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年〈明治27年〉12月9日 - 1978年〈昭和53年〉1月5日、本名象二)は、主に昭和時代に活躍した日本の陶芸家。民藝運動の中心的な活動家の一人であり、栃木県益子町に定住し、益子焼の中興の祖となった。 長男の濱田琉司は毎日新聞社記者[2][4][5]。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。 生涯神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口で、濱田久三の子として、母の実家である太田医院[注釈 1] で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(後の東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。1期上の各務鑛三とは生涯交友を持った[6]。1916年(大正5年)に同校を卒業した後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃、柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチの知遇を得る。 1920年(大正9年)、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。1923年(大正12年)には首都ロンドンで個展を開催、成功する。1924年(大正13年)に帰国し、しばらくは沖縄県の壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地である栃木県益子町で作陶を開始する。ほとんど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。 太平洋戦争後の1947年(昭和22年)、益子町に昭和天皇の戦後巡幸があり、天皇に益子焼の特質について奏上する機会を得る[7]。1952年(昭和27年)から翌53年(昭和28年)2月に柳宗悦と[8]欧州を旅行し、リーチと再会して共に帰国した。 1955年(昭和30年)2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定。また1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)には文化功労者・文化勲章を受章する。 柳宗悦の同志として民藝運動の興隆にあたり、1961年(昭和36年)5月に柳が死去した没後は、日本民藝館の第2代館長に就任した、1970年(昭和45年)の大阪万博における日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年(昭和47年)春に新装開館した大阪日本民藝館の初代館長にも就任し、1974年(昭和49年)には松方三郎の後任で日本民藝協会会長を兼務した。なお各・後任は柳宗理(宗悦の長男)が就いた。 最晩年の1977年(昭和52年)4月には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館した。 1978年(昭和53年)1月、益子にて没。享年83。従三位と銀杯一組を没後追賜された[9][10]。墓所は川崎市の宗隆寺。 没後没後も窯元・濱田窯として引き継がれ、濱田晋作と濱田友緒の陶芸家としての仕事と職人による窯ものと呼ばれる普段使いの器が製作されている[11]。 益子では、濱田の生誕百年を記念して1994年(平成6年)に「ましこの炎まつり」が始まり、2016年(平成28年)まで22回開催された後、担い手・出展者の減少と新型コロナ禍で途絶えたが、2025年(令和7年)1月に再開することとなった[12]。 弟子
著書
関連文献
「壷屋焼」に関する文献
脚注注釈出典
関連項目外部リンクInformation related to 濱田庄司 |