熊野神社熊野神社(くまのじんじゃ)は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。同名または熊野社(くまのしゃ・ゆやしゃ・いやしゃ)・十二所神社(じゅうにそじんじゃ、じゅうにしょじんじゃ)など類似の社名の神社が全国各地にある。 熊野神社とは熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社〈本宮〉、熊野速玉大社〈新宮〉、熊野那智大社〈那智〉)の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社のことである。熊野詣の盛行や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。熊野三山の祭神である熊野権現は、その主祭神である熊野三所権現だけでなく、本宮と新宮では他に9柱の祭神が祀られて十二所権現と呼ばれ、那智はさらに1柱多く祀られて十三所権現と呼ばれ、それらも含まれている[1]。 熊野三山の祭神を勧請するといった場合、三所権現のいずれかひとつの神ないし三神の全て、または十二所権現の全てないし若宮のみを勧請する場合や、九十九王子の中でも重要な五体王子を勧請するものもあり、それら全てを含めて熊野神社とした場合、その数は三千余に達するという[2]。熊野神あるいは熊野権現を勧請した全国各地にある神社は、熊野神社と呼ばれることもあれば、熊野神あるいは熊野権現が12柱の祭神から構成されていることから、十二所神社または十二社神社と呼ばれることもある[3]。 有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴族の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた[4]。「熊野御幸(くまのごこう)」と呼ばれる熊野詣を最初に行ったのは、延喜7年(907年)の宇多上皇であり、次いで正暦3年(992年)の花山上皇である[5]。しかしながら、中世熊野詣を担った平安京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする平安京の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、院の参詣は実質的に終焉し、貴族による参詣も13世紀過ぎまでのことであった[6]。かわって、承久の乱以後の鎌倉時代には新たな参詣者層として地方の武士が登場し[7]、15世紀ごろには一般民衆が最盛期を迎えた[8]。室町時代から戦国時代にかけて熊野山領の荘園からの収入が減退したことが熊野先達・御師の発達を促し[9]、熊野先達の活動が全国に及んだことで熊野信仰の伝播はいっそう促進された[10]。 分布熊野神社の全国的な分布を知る基礎資料となる研究は数点が知られている。広く用いられているのは那智山宮司の松井美幸が調査したもので熊野那智大社編纂の『熊野三山とその信仰』[11]に「熊野三山御分祀」として収められたもので、各社の社格・社名・祭神・鎮座地といった基礎情報を集成したものである。これに次ぐのは堀一郎が『明治神社誌料』『神社大観』をもとに郷社以上の社格を持つ社を都道府県別に集計したもの[12]、神社本庁の岡田米夫が1963年(昭和38年)に編纂した神社名簿をもとに池上らが試みた研究[13]がある。調査の精粗や合祀社の扱いにより、3,078社(松井)または2,442社(岡田)と総数に相違はある[14]ものの、池上らが指摘するように、熊野神社は、八幡神社・神明神社・稲荷神社と並んで全国的な分布を示していることが確認されている[15]。 主要な熊野神社以上の神社は「日本三大熊野」と総称され、熊野信仰の中心となっている[16]。 各地の熊野神社※ 以下は、単独名で熊野神社を名乗っている3,000社ほどある神社のうちの一例である。この他数多くの熊野社が地方の神社に合祀されている。 北海道
東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方和歌山県
京都府
兵庫県
中国地方
四国地方
九州地方
その他紀伊の熊野三山同様に、熊野三社が地理的・方角的に全く同じセット状態になっているのは、日本全国で3,000社以上ある熊野神社のなかでも宮城県名取市の熊野三社だけである。
島根県松江市の熊野大社は、熊野三山とは別の神を祀る神社とされるが、この神社から和歌山の熊野三山に勧請されたとする説もある。御坊市にある熊野神社(いやじんじゃ)はこの説に基づいている。島根県(旧・出雲国)安来市に古事記に記された伊邪那美神の神陵地があり、久米神社となっているが、別名は熊野神社とも言われている。 脚注
参考文献
関連項目 |