玖珂町
玖珂町(くがちょう)は、山口県岩国市の地名。世帯数は4,130世帯、人口は11,123人(2010年(平成22年)10月1日現在)[1]。 かつて山口県の玖珂郡にあった自治体であり、2006年3月20日に岩国市および玖珂郡内の町村(和木町を除く)と合併して自治体としての玖珂町は廃止され、代わって岩国市玖珂町となった[2]。また、当町は山口県内で最後まで残った、当初から廃置分合を行った事のない市町村であった。 旧玖珂町は大字の設定がなく、自治体時代より郵便番号は小字ごとに設定されており[3]、742-03xxが該当する(玖珂郵便局管区)。 地理岩国市の南部に位置する。北部は山地、南東部は丘陵地、南西部は玖珂盆地の東半部となっている。平地では、南西部を流れる島田川支流である笹見川と水無川が南西に流れ、川で形成された扇状地を中心に町が開けている。交通の発達や住環境の整備により、岩国市や市外の周南市のベッドタウンの性質をもつ。 歴史
概要町内の西部臼田地区(高森高等学校の裏山北)には、古墳時代の遺跡があり。他所にも早くから人の住み着いた痕跡が残る。町内を東西に山陽道が通り(古代においては玖西盆地の南山麓を通っていたと云う)、玖珂郡のほぼ中央に位置しているため、かっては郡家が置かれていた。石山寺に遺る戸籍帳は平安時代のもので国宝に指定されている[4]。 戦国時代の領主杉氏は大内氏に属していたが、厳島の戦いにおいて陶晴賢が毛利元就の巧みな策略に敗れた後は、彼の謀略の前に為すすべもなく敗れている(鞍掛山の合戦)。関ヶ原の戦いの後は、毛利氏の国替えに伴い岩国領(吉川氏)の治めるところとなり、隣の高森地域は徳山藩(毛利氏)となった。一つの盆地を分けた治世の違いは見えないところで軋轢を生じていたようである。江戸時代には吉川藩の代官所と300軒余りの店が並ぶ集落を中心として四方に広がる農村だった[5]。 小藩の領下で貧しく、明治10年代にはハワイへの契約移民を多く出し、日露戦争後には朝鮮移住者も少なくなかった[6]。また、子弟の教育には熱心で、教育村でもあった[6]。 地名の由来奈良時代(第44代元正天皇)ごろに、当地から玖の玉と珂の玉の2霊玉が出現したという伝説がある。 沿革
人口
産業特産品交通鉄道道路
施設
店舗など
出身著名人脚注関連項目外部リンクInformation related to 玖珂町 |