田中秀央
田中 秀央(たなか ひでなか、1886年3月2日 - 1974年8月6日)は、日本の言語学者、翻訳家。日本における西洋古典学の開拓者の一人。 生涯
1886年、愛媛県北宇和郡三浦村(現・宇和島市)で生まれた。宇和島中学校を卒業後、京都の第三高等学校に進んだ。1906年に東京帝国大学言語学科に入学し、ラファエル・フォン・ケーベルの下でギリシア語、ラテン語を学んだ[1]。1909年に卒業し、同大学大学院に進学。
1912年に卒業し、東京帝国大学講師として古典語を教えた。1920年7月より、京都帝国大学文学部講師を命じられ、同年10月には助教授昇格。1922年から文部省在外研究員としてオックスフォード大学に留学し、西洋古典学の研究を進めた。1924年帰国。1930年、学位論文『羅甸助辞quin及ビ其ノ歴史的慣用ニ就キテ』[2]を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。1931年、教授昇格。1936年に西洋文学第二講座の担当となり、事実上日本で最初の西洋古典学講座を設立した。講座では、田中美知太郎、松平千秋らが育った。 戦後の1946年に京都帝国大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は京都女子大学教授を1974年まで務めた。1974年8月に老衰のため死去[3]。 受賞・栄典
研究内容・業績西洋古典学の黎明期にあって、ラファエル・フォン・ケーベルの下で学び、西洋古典学の道に進んだ。ケーベルに師事した学生は多いが、西洋古典学に進んだのは田中秀央と久保勉の2名であった。京都で古典学研究の口座開設など環境面を整備し、後進を育成した。また、『羅甸文法』(1915)や『羅和辞典』(1952)といった文法書や辞書の編纂と執筆を手掛け、学習資料についても充実させていった。 文学作品の翻訳も数多く手掛け、ホメーロス、『イーリアス』、『オデュッセイア』の原典日本語訳を初めて行った。 家族・親族
著作
回想・評伝外部リンク
脚注 |