相原郷
相原郷(あいばらごう)は、愛知県名古屋市緑区の町名。現行行政地名は相原郷一丁目及び相原郷二丁目。住居表示未実施[WEB 5]。 地理名古屋市緑区の中央部に位置し、東に小坂と鳥澄、西に潮見が丘と六田、南に若田、北に大形山と滝ノ水と接する。 現在は新興住宅地となっており、北部に愛知県道36号諸輪名古屋線が開通したことで商店も立ち並んでいる[1]。 歴史町名の由来鳴海町の小字名「相原郷」による[1]。古くは「粟飯原」「藍原」と書かれていた[1][2]。『尾張徇行記』によれば古鳴海と二村山(現在の豊明市)の中間に位置するという意味の「鳴海アイノ原」に由来するというが[3]、この地域一帯は鳴海絞りの本場であることからは藍染めに由来する地名であるとの説もある[2]。「郷」とは単に村という意味でつけたものだと考えられている[4]。 中世までの沿革かつて当地には貝塚が存在したといい、古代から大規模な集落が形成されていた可能性が指摘されている[4]。 「粟飯原」「藍原」との地名は、南北朝時代から室町時代頃には既に確認できる[3]。当地には鎌倉街道が通っていたため古くから町が栄えていた[WEB 6]。『足利尊氏下文写』には、1337年(建武4年)8月5日付で足利尊氏が敵を討った本多右馬助定という人物に「粟飯原郷」を与えたとの記録が残されている[4][3]。室町時代前期に書かれた『満済准后日記』には、鳴海庄の一つとして「あいはら」と記載がある[3]。 相原村1608年(慶長13年)、慶長検地に際して当地周辺には相原村が成立した[4]。相原村は元は鳴海村の領域であったといい、鳴海村から分立したのだという[4]。そのため周囲を鳴海村に囲まれていた[2]。相原村の領域は現在の相原郷とその周辺地域を指し、徳重や鳴海町字宿地・早稲屋・片坂の辺りまでを含んだという[4]。『寛文村々覚書』よると、相原村は家数30、人口213、牛馬23[3]。『尾張徇行記』によれば、相原村の概高632石のうち約576石が藩士8人の給地で、当時の給人として中条多膳、尾崎伝兵衛、兼松銀之丞、室賀多宮、長坂藤右衛門、上田半右衛門、酒井林左衛門、森平八が挙げられている[4]。田畑42町2反のうち32町6反が田を占めていた[2]。江戸時代は専ら農業のみが行われており、人口が多かったため労働力は十分であったという[3]。 1876年(明治9年)に相原村は鳴海村、平手新田と合併し鳴海村となった[3]。もともと「相原郷」とは相原村のことを指したというが、合併以降は相原郷の中心地を指す小字名となった[5]。なお鳴海町の小字に「相原町(あいばらまち)」があるが、これは1584年(天正14年)に当時相原村の領域であった字宿地の人々が移住してきたためこの名がついたのだという[4]。 行政区画の変遷
世帯数と人口2019年(平成31年)3月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移
学区市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる[WEB 12]。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[WEB 13]。
交通施設相原郷一丁目
相原郷二丁目
その他日本郵便脚注WEB
書籍参考文献
関連項目外部リンク
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