石垣島セミナー(いしがきじまセミナー)は、1990年4月に沖縄県石垣市の石垣島で開催されたオウム真理教の合宿勉強会である。正式名称は「神言秘密金剛菩薩大予言セミナー」[1]。
概要
1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で、オウム真理教は「真理党」を結成し、麻原彰晃を含む信者25名を立候補させたが、全員が落選、供託金没収の惨敗となった。そのため、教団の組織が一時ガタガタになっていた。当初は、石垣島内の会場を借りてセミナーを行う予定であったが、オウム真理教であることがばれたため、断られてしまった。そのため急遽、海岸のキャンプ場で開かれることになった。
参加者によると参加費は30万円であったが大雨だったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年の「オースチン彗星(英語版)の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。だが、このセミナーでは1270人が参加、約500人が出家し、崩壊寸前だった教団を盛り返すことに成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった[2][3]。
選挙での惨敗後に脱会者が続出したため、1990年4月に「オースチン彗星が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した[2][4]。
真相
このため当時、このセミナーはただの資金集めのための大芝居であると思われていた[5]。しかし一連の事件の発覚後、セミナーの当初の目的はオウム真理教が計画をしていたボツリヌストキシンによるテロから、オウムの信者を守ることであったと発覚した。しかし培養は失敗しておりラットに注射してもうまく死ななかった。麻原の「やめるか」の一言でテロ計画は中止された[6][7]。
「
上九でつくっているものを気球に載せ、世界中に撒くのではないですか。そうすると、撒かれたところにいる生物は、生命の危機に瀕します。今度の石垣島でのセミナーでは、イニシエーションとして、その菌に対する抗体が与えられるのではないですか」
現実離れした回答が唐突になされたことについて、奇異に思われるかもしれません。しかしそれが、オウムというコミュニティーでした。閉鎖的環境においてヴァジラヤーナの救済が説かれ続けたために、教団では規範意識が一般社会のそれとは乖離し、その救済――人々の生命を絶ち「ポア」すること――の実行は当然のこととして受け取られていたのです。
果たして麻原は、
「そうか、分かっていたのか」
と、感慨深げに応じました。そして再び私に問いました。
「表面的なことはすべて分かっているようだが、深い意味はどうだ」
「現代人は悪業を積んでいるから、カルマ落としをするのですか」
私の回答に触れることなく、麻原は説き始めました。
現代人が悪業を積んでいるために、地球が三悪趣化し、宇宙の秩序が乱れている。それを我々が正さなければならない。
これから上九で培養するのは、ボツリヌス菌である。この菌が生産するボツリヌス・トキシンは、少量でも吸い込むと呼吸中枢に作用し、呼吸が停止する。そしてサマディーに至り、ポアされる。
このボツリヌス・トキシンを気球に載せ、世界中に撒く。これは、第二次世界大戦中に日本軍が行った「風船爆弾」の方法である。中世ヨーロッパでペストが流行したときは黒死病といわれたが、今回の病は白死病といわれるだろう。
ここで、なぜ我々がやらなければならないのか、疑問が生じるかもしれない。これは本来、神々がやることだが、神々がやると天変地異を使い、残すべき者を残せないから我々がやるんだ。そして、縁ある者を地球に転生させて、真理の実践をさせる。
今回の衆院選は、私のマハーヤーナの救済のテストケースだった。その結果、マハーヤーナでは救済できないことが分かったから、これからはヴァジラヤーナでいく。これは最初から分かっていたことだが、私もだいぶ悩んだんだ。
— 広瀬健一手記[8]
元信者らの証言
信者らが石垣島へ避難している間に、本土で炭疽菌をばらまく計画があった。同年4月に最初の散布が実行されるが、被害がなく失敗に終わった。その後も炭疽菌の製造が続けられたが、その過程で信者らを被害から守るために富士山総本部道場を初め、「清流精舎」でも、「ハルマゲドンに備えたシェルター」という名目で、壁から天井一面にビニールの覆いが作られた。同時にハルマゲドンに備えて外から電気を引くという名目で電気工事が行われていた。石垣島セミナーから帰ったばかりのある信者は、あまりに粗雑で異常な光景にハルマゲドンが起これば外の世界が滅ぶため、意味がないのではないかと考えたが、ワークを行っている信者らは「上からの指示だから」とだけ答えた。ビニール製のシェルターは、強度が弱く、子ども班がいた棟では、シェルターの中を子どもが走り回るため、10分も経たずに破れるありさまだった。その対策として「ビニール班」が組織された。出家信者らにもこの演出はリアリティに欠けるように見られ、在家信徒らは「見て見ぬふり」をしている印象であったという。セミナーの最中には、麻原の三女アーチャリーが「こんなビニールがシェルターになんかなるわけないよねー」と言って去っていったが、それを聞いた女性出家信者2人は、「とにかく、いま与えられていることを全力で頑張りましょう」などと発言していたという。それらの光景を目撃した元信者の証言では、この出来事は、麻原の予言のすべてをそのまま鵜呑みにすることをしなくなった大きなきっかけになり、予言がらみの話を聞いたときには、なにか別の意図がないかを少なからず考えるようになった。さらに、ビニールのシェルターは核爆弾用ではなく、オウムが自らまいたボツリヌス菌から守るためのものだと後に聞かされたが、シェルター造りがずさんだったのは、ボツリヌス菌を利用した兵器に、人を殺傷する能力がないことがわかっていたからではないかと考えたという。事実、効果が著しく低いのは、散布の前の動物実験で確認されていたという話もある[9][10]。
この信者によれば、麻原は世間では大ぼら吹きで、目が不自由なために細かいことにまで気が回らないのではと世間で推測されているが、経典の翻訳や修行法の効果の確認などで、それが正しいかどうかを常に検証していた細かい一面があり、開発した兵器の効果や、それから身を守るためのシェルターの能力を知らずに大量散布の指示をしていたとは考えられないことから、それらを折り込み済みで演出を行っていたのではないかと証言している[10]。
脚注
- ^ 脇坂 有希「オウム真理教・「人類最終戦争」への道 ―その成立から崩壊まで―」 p.25
- ^ a b 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.336-352「麻原はすべてを知っている」。
- ^ 東京キララ社編集部編『オウム真理教大辞典』 2003年 p.15
- ^ 『「オウム真理教」追跡2200日』pp.452-477「被害者の会会長を襲った怪事件」。
- ^ 毎日新聞社会部『冥い祈り』 p.53
- ^ 江川紹子『「オウム真理教」追跡2200日』 p.341
- ^ 【6】「1990年(平成2年)」 | 1.『オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括』 | 団体総括(本編) | オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要-
- ^ 浄土真宗 円光寺「オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記」
- ^ 野田成人のblog「前回の続きで、93年亀戸炭疽菌バラ撒き計画について。」2015年2月4日(FC2)
- ^ a b 「オウムの予言 ビニールシェルター編」machiku - 2012年 NHKスペシャル『未解決事件file.02オウム真理教』のドラマの中で深山織枝役のモデルになった本人のブログ Posted by machiku on October 27 2013(FC2)