石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年(昭和2年)3月11日 - 2018年(平成30年)2月10日[1])は、日本の小説家・詩人・環境運動家。
主婦として参加した研究会で水俣病に関心を抱き、患者の魂の訴えをまとめた『苦海浄土ーわが水俣病』(1969年)を発表。ルポルタージュのほか、自伝的な作品『おえん遊行』(1984年)、詩画集『祖さまの草の邑』(2014年)などがある。
生涯
生い立ち
石牟礼道子は1927年3月11日白石亀太郎(当時34歳)と吉田ハルノ(当時24歳)の長女として、熊本県天草郡河浦町(現・天草市)に生まれる。父や祖父は石工であり、道子という名は道路が完成することを予祝して、[2] 家族全員が考えて、名付けられた[3]。三か月後には、葦北郡水俣町へ帰り以後そこで育つ。1930年に水俣町栄町に引っ越す。1934年に水俣町第二小学校に入学。小学二年生の時に初めて小説を読む。その時に読んだのは、中里介山の『大菩薩峠』であった[4]。二年生の終わりごろ、山を売っていた祖父が事業に失敗し、栄町の自宅が差し押さえられ、水俣川河口の荒神通称「とんとん村」に引っ越す。水俣町立第一小学校に転校、舟で学校に通う[5]。1940年に小学校を卒業し、水俣実務学校(現 熊本県立水俣高等学校)に入学。このころから歌を作り始める。1943年に卒業し、佐敷町の代用教員錬成場に入る。二学期より、田浦小学校に勤務する。この頃、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を知り、深く感銘を受ける[6]。 代用教員時代の19歳の時、小学校にあった亜ヒ酸で自殺を試み、未遂に終わる[7]。
結婚と自殺未遂
1947年、教師の石牟礼弘と結婚し主婦となったが、生きにくさを感じ、結婚4か月目には自殺を図ろうとした。翌年、長男の道生が生まれたことで、自殺を思いとどまるようになった[8]。
「サークル村」と水俣病への出会い
1956年短歌研究五十首詠(後の短歌研究新人賞)に入選。1958年に谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始した[9]。1958年、弟が鉄道自殺する[10]。
この頃、長男が入院した病院で「奇病」の存在を知り、強い衝撃を受けている[11]。
その後、熊本大学研究班が出した報告書に衝撃を受け、1968年、日吉フミコらとともに水俣病患者を支援する水俣病対策市民会議を立ち上げた。
1969年には、「苦海浄土 わが水俣病」を発表し、大きな反響を得た。この著作は熊日文学賞や第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、いずれも受賞を辞退している。
1986年5月には穴井太(俳人)の世話により句集「天」(天籟俳句会)を刊行。
1993年、週刊金曜日の創刊に参画。編集委員を務めたが手伝いをしただけである事を理由に2年で辞任している。
2002年7月、新作能「不知火」を発表。同年東京上演、2003年熊本上演、2004年8月には水俣上演が行われた。
2018年2月10日午前3時14分、息子の道生、妹の紗子、姪のひとみ、道子の介護歴のある大津円が見守る中、[12]パーキンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去。90歳だった[13][14][15][16]。4月15日には送る会が開かれ、上皇后も参列し、「日本の宝を失いました」と道生に述べた[17]。
没後
随想集、回想評伝が多く刊行され、再評価されている[18]。
作風・評価
田中優子は、「石牟礼さんはノーベル文学賞をとれるほど作家だったと思うのに、亡くなって残念だ」と述べている[19]。
沼野充義は日本の作家のうちノーベル文学賞を受賞してもおかしくない一人として石牟礼道子を挙げた[20]。
人物
活動家として
石牟礼は、文筆活動のほかに水俣病に関する活動を行ってきた。石牟礼自身は、「私は社会運動家ではなく、詩人であり作家です」と、活動家であることを否定している[21]。「日本のレイチェル・カーソン」や、[22]「水俣病闘争のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる[23]。
読書
道子は、本を通読しない作家としても知られている。
本の読み方もね、初めから終わりまでずっと読んだのは高群逸枝さんの『女性の歴史』ぐらいじゃないかな。たいていは、真ん中読んで、うしろ読んで、初め読むみたいな、ね。そういう読み方しかできないんです。あの人は。
— 米本 2019,32頁より引用
家族
- 祖父・吉田松太郎(石工)
- 祖母・吉田モカ
- 盲目で狂女であったが、「おもかさま」と呼ばれて家族や周囲から大切にされていた。道子は幼いころ祖母の遊び相手であり世話係でもあり、「魂が入れ替わる」感覚を抱くほど心を通わせていた。[24][25]
- 父・白石亀太郎(石工)
- 吉田家の婿養子。焼酎が好きであった[21]。猫も好きであった[26]。
- 弟・一(ハジメ。1928-1958)
- 30歳のとき鉄道自殺により死亡した[10]。
賞歴歴
著書
単著
- 「椿の海の記」「水はみどろの宮」「西南役伝説(抄)」「タデ子の記」、詩十篇、能「不知火」を収録。
共著
作品集
石牟礼道子全集 不知火
石牟礼道子詩文コレクション
主に詩歌集
編著
DVD
ドキュメンタリー
関連人物
- 原稿用紙の使い方を教えたり、作品の清書なども行っていたという。また石牟礼がパーキンソン病を発病してからは、食事などをつくるために、石牟礼のもとに通っていた[30]。大半の没後の遺文集、追悼論集の編集も行った。
参考文献
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク