秋田Aスケ・Bスケ秋田Aスケ・Bスケ(あきたえーすけ・びーすけ)は、戦中〜戦後に活躍した、日本の漫才のコンビ。結成当時は吉本興業、その後、大滝エージェンシー→株式会社パルティール所属。 二人は従兄弟の関係だという。 メンバー
元メンバー
来歴Aスケは1935年に来阪し服地屋(ラシャ屋)で働いていたが、1938年頃にたまたま新聞広告で見た吉本興業で秋田實が開いた漫才道場の記事を見て応募し300名近くいた応募の中で20数名ほどの合格、偶然にも双子の弟も来阪したために誘い、第一期研修生となる。阿倍野にあった花月で初舞台。戦時中はカタカナ使用の禁止で徳山英助・美助(読み同じ)を名乗らされた。 しかし間もなくBスケが病死したため、Aスケは大阪を離れ初代柳家三亀松のカバン持ちをしていたところ、漫才師の守住田鶴子(旧名:高田田鶴子。人生幸朗、浅田家寿郎らの元相方)の甥、また高田水月の叔父にあり、造船所で働いていて神戸の天狗連で名を売っていた二代目Bスケを紹介され、1946年新コンビ結成。1948年、師匠の秋田實が率いるMZ研進会に加わって切磋琢磨し、1951年、秋田と小林一三が立ち上げた宝塚新芸座に納まり、二代目Bスケの猿の物真似で人気爆発する。なお毎日放送(当時新日本放送)の専属であった時期もあり多くの番組に出演した。 その後各々副業を持ち表舞台から離れ、また90年代後半以降は両者共に高齢のため目立った活動をしておらず、後輩の出演する寄席や講演に乞われて顔を出したりする程度であった。1996年5月大阪府知事表彰。 2005年末に結成60年を祝った。2016年2月19日、第19回上方演芸の殿堂入りに選出されたことが発表されたが、Aスケは既に前年8月に死去しており、また二代目Bスケも受賞発表の3日後に死去。同年3月29日の表彰式に出席することはなかった。 秋田門下で唯一『秋田』の屋号を許されており期待が大きかった。 主な弟子には横山ノック(秋田Kスケ)[1]、秋田Cスケ・Pスケ、三代目平和日佐丸(秋田Οスケ)、秋田一号・二号、秋田イチカ・バチカ等がいる。 芸風夢路いとし・喜味こいしの定番ネタ『こうもり傘の張り替え』は、元は秋田實がAスケ・Bスケのために書き下ろしたネタであった事からも分かる通り、しゃべくり漫才を基本としていたが、二代目Bスケが猿の真似で子供達に大人気を博したことから(エテ公のBちゃんと呼ばれた)、話術ではなくギャグ頼みになってしまうジレンマを抱えてしまった。 Aスケは一発芸に依存して稽古に不熱心なBスケを嘆き、また結成60年記念の記者会見でも「最近のお笑いは漫才じゃなくてコントになっている」と苦言をこぼした。 エピソード
出演作品
CD、DVD脚注
関連項目出典
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