秦 彦三郎(はた ひこさぶろう、1890年(明治23年)10月1日 - 1959年(昭和34年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将。ロシア通として知られ第二次世界大戦終戦時の関東軍総参謀長。戦後はシベリアに抑留された。
略歴
三重県に生まれ、1912年、陸軍士官学校を卒業(24期)して歩兵少尉となる。1915年、歩兵中尉となる。1919年、陸軍大学校を卒業(31期)。1922年、歩兵大尉となり参謀本部員(ロシア班)となり、翌年、関東軍の満州里機関長となる。1926年、ソ連大使館附武官補佐官となり、翌年、歩兵少佐となる。
1930年、ポーランド公使館附武官、ラトビア公使館附武官となる。1931年、歩兵中佐となる。1932年、ルーマニア公使館附武官となる。1933年、参本ロシア班長、翌年、ソ連大使館附武官となる。 1936年、歩兵大佐(新聞班長)となる。
1938年、関東軍司附(ハルピン特務機関長)となり、翌年、陸軍少将となる。1940年、 関東軍参謀副長となり、1941年、関東軍参謀副長(兼秦機関長)となり陸軍中将となる。1942年10月に第34師団長、1943年4月に参謀次長・大本営兵站総監となり、戦局不利な状況の中で作戦指導にあたる。1944年3月から8月までは陸軍大学校校長も兼職した。1945年4月7日、敗戦濃厚の中、関東軍総参謀長となる。同年8月9日、ヤルタ協定に基づきソ連軍が満州と朝鮮に侵攻し、同月18日、満州帝国滅亡。同年8月19日、山田乙三関東軍総司令官と秦は瀬島龍三中佐らを伴い、ジャリコウヴォのアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。
1945年12月2日、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに後宮淳大将と共に名前があった[1]が、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[2]。1956年12月26日に復員。
逸話
- ロシア語に長ける秦は大佐(陸軍省新聞班長)の頃、ユダヤ系ロシア人の家に下宿して『隣邦ロシア』と言う本を出版している。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
脚注
- ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
- ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。