細野燕台細野 燕台(ほその えんたい、本名:申三(しんぞう)、1872年8月5日(明治5年7月2日) - 1961年9月24日)[1]は、明治から昭和にかけて金沢市や鎌倉市で活動した日本の茶人、書家[2][3]。「金沢最後の文人」と称され[4]、また北大路魯山人を世に出した人物としても知られる[2][5]。 経歴金沢市材木町の商家の長男に生まれる[1]。生家は油屋であったが、1885年に酒屋へと商売替えをし、さらに燕台の代となってから、1900年前後に酒屋を廃業してセメント商となり、また中国雑貨を扱う骨董店を開いた[1][2]。 金沢養成学校〜金沢小学校(後の金沢市立馬場小学校)に学ぶ[1]。当時の同級生には、泉鏡花、徳田秋声、小倉正恒などがいた[2]。実年齢は、秋声が2年、燕台が1年、鏡花より上であったが、二人が落第したため同じ学年になっていた[5]。 十代から、江間萬里に漢詩、和歌、書の手ほどきを受け、二十代で五香屋休哉に師事して漢学を学ぶ[1]。また、書家の北方心泉にも師事した[4]。 1915年、当時無名であった福田大観(後の北大路魯山人)を寄留させ[1]、美食や陶芸について啓発した[2][3][5]。 1918年、金沢の骨董界を糾合した金沢美術倶楽部を設立し[5]、設立後は役員となる[1]。 1920年、卯辰山山麓の龍国寺で宮崎友禅斎の墓を発見し、これを機に三越の主催により墓前祭を開催するなどして、加賀友禅への注目が集まった[1][2]。 1928年、魯山人の求めに応じて星岡茶寮の顧問となり、鎌倉に移り住む[1]。以降、明月谷最明庵と号し[2]、三越の美術部に北陸在住の作家を数多く紹介するなど、「美術プロデューサーの役割を果たし」たとされる[4]。 室生犀星は、1938年に徳田秋声、小杉天外と北鎌倉の自宅に燕台を訪ねた際の様子を雑誌『改造』に「四君子」と題して寄稿した[5]。 燕台は、生涯を通して酒を好み、常時数十本の日本酒を揃えていたと言われる[4]。伊東深水が晩年の燕台を描いた作品に『酔燕台翁』があり[3]、石川県立美術館に所蔵されている[6]。 1989年、篆刻家の北村正枝(南苑)は、燕台の伝記『雅遊人』を出版した[2][7]。 脚注
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