荒井良平
荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - 1980年10月22日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。 人物・来歴1901年(明治34年)10月22日、長野県上田市に生まれる[1][2]。 長じて東京に移ったが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起き、焼け出されて大阪に移る[1]。当時、日活大将軍撮影所の時代劇の原作募集に応募、入選した[1]。これをきっかけに同所の池永浩久の面接を受けて、監督志望である旨を伝えたが、俳優研究生として同社に入社した[1]。記録に残るもっとも早い時期の出演作は、1926年(大正15年)2月28日に公開された楠山律監督の現代劇『愛の貴公子』における「滝川耀子の父・義人」役で、満24歳にして宮部静子の父親役を演じた[3][4][7]。1928年(昭和4年)8月、同社を退社、福井に人造絹糸の工場を開き、実業家に転身する[1]。 1929年(昭和4年)、新設された日活太秦撮影所(のちの大映京都撮影所、現存せず)に復帰、同年3月31日に公開された池田富保監督の『英傑秀吉』に出演したのを最後に、助監督に転向、池田富保、仏生寺弥作、伊藤大輔に師事した[1][3][4][7]。1933年(昭和8年)1月10日に公開された『新蔵兄弟』で映画監督としてデビューした[1][3][4][7]。『水戸黄門 来国次の巻』(1934年)、『水戸黄門 密書の巻』(1935年)、『水戸黄門 血刃の巻』(同)、『牢獄の花嫁』(1939年)、『鍔鳴浪人』(同)等のヒット作を手がけ、「ドル箱監督」としての地位を築いた[1]。1942年(昭和17年)、大日本帝国陸軍第25軍報道部に所属して、マレー半島およびスマトラ島に配置される[1]。 第二次世界大戦終結後は、1947年(昭和22年)9月には、マキノ眞三のマキノ映画で短篇教育映画『ゴムまり』を監督、1948年(昭和23年)9月28日に公開された『サザエさん 前後篇』(『サザエさん 七転八起の巻』)を監督した[3][5]。1953年(昭和28年)からは大映京都撮影所と契約した[1][3]。1959年、テレビドラマ『アチャコ武芸帖』を最後に監督を引退[8](テレビドラマデータベースでは1957年(昭和32年)に放映されたテレビ映画『甘から横丁』が、荒井の「監督引退記念作」とされる[9])。をその後は、調布の日活撮影所で端役を演じたりした[7]。晩年は、瀬戸内海の小豆島に移住した[1]。 1980年(昭和55年)10月22日、香川県小豆郡内海町(現在の同県同郡小豆島町内海地区)で死去した[2]。生没同日、満79歳没。 1997年(平成9年)11月に行われた第10回東京国際映画祭「ニッポン・シネマ・クラシック」部門で、山中貞雄とともに応援監督として参加した『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』(監督稲垣浩、1935年)が上映された。 フィルモグラフィ特筆以外すべてクレジットは「監督」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 日活大将軍撮影所すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]。
日活太秦撮影所すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]。
日活京都撮影所特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」(太秦)、配給は「日活」、特筆以外すべてトーキーである[3][4][7]。
フリーランス
大映京都撮影所特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[3][4]
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |