薄田研二
薄田 研二(すすきだ けんじ、1898年9月14日 ‐ 1972年5月26日)は、日本の俳優。本名:高山 徳右衛門(幼名:徳太郎)。 築地小劇場研究生からキャリアをスタートさせ、同劇場分裂後に新築地劇団の結成に参加、同劇団の中核的存在として活躍。その後も苦楽座、劇団中芸、東京芸術座などの劇団を設立し、新劇運動の中心的指導者となった。晩年は後進の教育にもあたっている。戦中・戦後は映画にも多く出演しており、特に東映時代劇で欠かせない悪役俳優として知られた。著書に自伝『暗転 わが演劇自伝』(東峰書院、1960年)など。前妻は高山晴子(倉田百三の最初の妻)、後妻は女優の内田礼子。息子は高山象三、娘は女優の薄田つま子。 来歴・人物1898年(明治31年)9月14日、福岡県早良郡西新町(現在の福岡市早良区)に造り酒屋・肥前屋の6人兄妹の長男として生まれる[2]。実家の肥前屋は「松の雪」という銘柄の酒を醸造しており、12歳で父母を亡くした薄田は肥前屋の当主となった[3]。幼名は徳太郎だが、祖父の名を継いで徳右衛門を名乗った[4]。幼時から博多仁和加の物真似を得意としていた。 1918年(大正7年)、友人の児島善三郎を介して結核療養中だった倉田百三の知遇を得、彼の寓宅に設立された新しき村福岡支部の会員となる[4]。1921年(大正10年)に画家を目指して上京、倉田の入院送別の余興で上演した『俊寛』で素人ながら主役を務め、好評を得た[4]。また、多妻主義と呼ばれた倉田と別居していた夫人の高山晴子と恋愛関係になり、倉田の同意を得て彼女と結婚し[3][4]、薄田つま子、後に高山象三を儲けている。晴子と結婚後に福岡へ戻り、具象舞台劇協会という劇団を組織して、倉田原作の『出家とその弟子』などを上演した[4]。 1923年(大正12年)、家業を弟に譲り、妻子を連れて上京。1925年(大正14年)、築地小劇場の研究生となり、同年11月の『どん底』(再演)の警部役で初舞台を踏んだ[4]。同期には細川ちか子、高橋豊子らがいる。翌1926年(大正15年)1月の『ベニスの商人』(土方与志演出)ではシャイロック役に異例の抜擢を受け、3月の『役の行者』では一言主を演じて好評を博した[5]。1928年(昭和3年)12月、築地小劇場の創設者である小山内薫が死去すると、劇団内で対立が生じ、創設者の一人である土方与志についた薄田は、1929年(昭和4年)3月25日に丸山定夫、山本安英、伊藤晃一、高橋、細川らと脱退、土方と久保栄を迎えて新築地劇団を結成した。1931年(昭和6年)には日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に加盟、同盟解散後の1934年(昭和9年)に同劇団の幹事長となり、劇団の中心的俳優となった。 1940年(昭和15年)8月19日、新劇弾圧で八田元夫、本庄克二ら14名の劇団員と後援会関係者、その前に退団した千田是也、岡倉士朗らが逮捕。 薄田も翌8月20日に警視庁特高第一課に呼び出され、社会主義思想を基調とした新築地劇団を自発的に解散するように強要されている。このことを受け、同年8月23日、劇団は解散を決議[6]。 その後、薄田も半年余り牛込署に留置されたが、起訴猶予で釈放されている[7][8]。 演劇活動の一方、1930年代頃から映画にも出演するようになり、衣笠貞之助監督『大坂夏の陣』、稲垣浩監督『宮本武蔵』等に出演。新築地劇団解散後、永田雅一の計らいで大映の専属俳優となったが、芸名の使用を禁じられたため、本名の高山徳右衛門名義で出演した[7][9]。 1942年(昭和17年)、徳川夢声、藤原釜足、丸山とともに苦楽座を結成し地方公演を行う。1944年(昭和19年)12月24日に同座は解散するが、翌1945年(昭和20年)1月に日本移動演劇連盟に組み込まれ、苦楽座移動演劇隊(6月に桜隊と改称)として再結成された。薄田は広島への劇団疎開に加わらなかったが、原爆投下で疎開組は被爆し、同座の舞台監督兼俳優だった息子の高山象三は8月20日に避難先で死去した。 同年12月14日、久保栄、滝沢修らと東京芸術劇場を結成[10]。12月26日には新劇合同公演『桜の園』に東山千栄子、滝沢、千田らと出演。東京芸術劇場は1947年(昭和22年)3月に分裂し、村山知義らによる第2次新協劇団に参加、この頃に日本共産党に入党した[7]。この間に女優の内田礼子と結婚、晴子とは離婚した[11]。1951年(昭和26年)、日本共産党の50年問題の影響で新協劇団を脱退し、8月29日に中央芸術劇場(後に劇団中芸と改称)を設立してその主宰者となった。1956年(昭和31年)、『人形の家』を演出し、翌年の同劇場公演『無法松の一生』で演出・主演。1959年(昭和34年)2月4日、劇団中芸と新協劇団との合同で東京芸術座を設立した。 戦後の映画出演は、名を薄田研二に戻して、木下惠介監督『破戒』、伊藤大輔監督『レ・ミゼラブル あゝ無情』、佐分利信監督『風雪二十年』や、山本薩夫監督『箱根風雲録』といった独立プロ映画などに出演。また、1952年(昭和27年)公開の『赤穂城』で吉良上野介を演じてからは、東映時代劇で名悪役俳優として活躍。1954年(昭和29年)に東映専属となり[12]、全盛期には年間20本もの作品に出演した[9]。忠臣蔵映画では4度も堀部弥兵衛を演じており、『旗本退屈男』『いれずみ判官』などの人気シリーズにも必ず登場している。 1963年(昭和38年)、『右京之介巡察記』出演後に脳溢血で倒れ、再起不能といわれたが奇跡的に回復し、1969年(昭和44年)にススキダ演技研究所を開いて後進の育成にあたった[5]。 1972年(昭和47年)5月26日6時50分、急性肺炎のため東京都文京区本駒込の自宅で死去[9][12]。73歳没。5月28日に東京芸術座と研究所の合同葬が営まれ、村山知義が葬儀委員長を務めた[9][12]。没後、勲四等瑞宝章追贈[9]。墓所は品川区妙蓮寺。 出演映画
著書
脚注
参考文献関連文献
外部リンク
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