藤原氏宗
藤原 氏宗(ふじわら の うじむね)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。 経歴翌天長10年(833年)仁明天皇が即位すると、中務大丞・蔵人・式部大丞を経て、承和5年(838年)従五位下・式部少輔に叙任される。承和7年(840年)左近衛少将に遷ると右少弁も兼ねた。承和9年(842年)4月には来日した渤海使に対して食事の提供を行い[1]、同年10月に従五位上・陸奥守に叙任され受領として任国に赴任した。承和13年(846年)式部少輔に再任されて京官に復すと、衛門権佐を経て、承和15年(848年)には正五位下・春宮亮に叙任されて皇太子・道康親王にも仕える。その後も嘉祥2年(849年)右中弁として弁官に復し、翌嘉祥3年(850年)従四位下に叙せられるなど順調に官途を進めた。 嘉祥3年(850年)4月に春宮亮として仕えていた道康親王の即位(文徳天皇)に伴い蔵人頭(頭弁)に任ぜられると、右近衛中将・右大弁と文武の要職を兼ね、翌仁寿元年12月(852年1月)参議として公卿に列す。文徳朝では議政官として左右中将・検非違使別当・左衛門督・左右大弁と引き続き文武の諸官を兼ねた。 天安2年(858年)清和天皇の即位後に正四位下へ叙せられる。貞観元年(859年)従三位に昇進し、また同年藤原基経の異母妹で後宮に出仕していた藤原淑子を後室に迎える。清和朝では、貞観3年(861年)先任の参議で後に左大臣にまで昇る嵯峨源氏の源融を越えて中納言となると、同じく嵯峨源氏の大納言源定・弘の薨去もあり、貞観6年(864年)権大納言、貞観9年(867年)正三位・大納言と目覚ましい昇進を遂げ、貞観12年(870年)右大臣に至った。なお、この急速な昇進の背景には後宮の実力者であった室・淑子の影響もあったとされる。清和天皇の命により、貞観11年(869年)に『貞観格』を、貞観13年(871年)には『貞観式』を選上。また貞観永宝の鋳造にも関わり、貞観の治と呼ばれる同天皇の治世に大いに貢献した。 右大臣に在任中の貞観14年(872年)2月11日薨御。享年63。最終官位は正三位守右大臣。没後正二位を贈られている。 官歴※ 注記のないものは『六国史』に基づく。
系譜
脚注参考文献Information related to 藤原氏宗 |