藤原 顕季(ふじわら の あきすえ) は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原北家魚名流、正四位下美濃守・藤原隆経の次男。官位は正三位・修理大夫。六条修理大夫と号した。歌道家の流派の一つ六条藤家の祖。善勝寺流初代。
経歴
藤原北家魚名流の後裔である美濃守・藤原隆経[1]の子として誕生。末茂の子孫では光孝天皇の母・藤原沢子の甥として中納言に昇った有穂が唯一の公卿であり、顕季の家は代々受領を務める中級貴族に属する家であった。
母が白河天皇の乳母であったため、乳兄弟として白河天皇の信任が厚く、若い頃より讃岐国・丹波国・尾張国と上国の国司を歴任。永保3年(1083年)には29歳にして早くも正四位下に昇進する。その後も大国である播磨守や大宰大弐を務めながら財力を蓄え、その邸宅六条殿は白河院の院庁となるほど豪勢なものであった。また、家格を上げるために、白河上皇の生母藤原茂子の兄である藤原実季の養子にもなった。
院の近臣として権勢を誇り、長治元年(1104年)には従三位に昇進、末茂の子孫としては前述の有穂以来約200年ぶりの公卿となった。しかしながら、議政官への昇進は叶わず、極官は正三位・修理大夫であった。なお、顕季が白河法皇に対して参議への任官希望を伝えたものの、漢詩を作れない事を理由に沙汰止みになったとされる[2]。
顕季の三人の子(長実・家保・顕輔)及びその子孫も院の近臣として活躍。顕季から始まる家系は善勝寺流と呼ばれ、四条家を始めとして、7家の堂上家(羽林家)を輩出した。
官歴
『公卿補任』による。
歌人として
藤原忠通主催の歌合ほかで判者を務める等、時代を代表する歌人であった。自身も歌合を主催する等精力的に活動した。承暦2年(1078年)の『承暦二年内裏歌合』、寛治7年(1093年)の『堀河百首』、『郁芳門院根合』、『堀河院艶書合』、『鳥羽殿北面歌合』等に出詠して名声を博した。
元永元年(1118年)には、柿本人麻呂の図像を祭り歌を献じたが、これは史上最初の「人麿影供(えいぐ)」の記録とされる。
『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に48首の作品が採録されている[3]。特に白河法皇の院宣により編纂された『金葉和歌集』には20首が入首し、顕季の歌が巻頭に記されている。家集に『六条修理大夫集』がある。
代表的な歌
- 鴫のふすかり田にたてる稲茎の否とは人のいはずもあらなん(後拾遺和歌集)
- み山いでてまだ里なれぬ時鳥うはの空なる音をやなくらん(金葉和歌集)
- 夏衣すそのの草葉ふく風におもひもあへず鹿やなくらん(金葉和歌集)
- わが恋は烏羽にかく言の葉のうつさぬほどはしる人もなし(金葉和歌集)
- わぎもこが声たちききし唐衣その夜の露に袖はぬれにき(金葉和歌集)
- 種まきしわが撫子の花ざかりいく朝露のおきて見つらん(詞花和歌集)
- 五月闇さ山の峰にともす火は雲のたえまの星かとぞみる(千載和歌集)
- 夜とともに行方もなき心かな恋は道なきものにぞありける(千載和歌集)
- 霞しく木の芽はるさめふるごとに花の袂はほころびにけり(新勅撰和歌集)
系譜
- 義兄弟:藤原通俊…妻の兄弟。歌人。『後拾遺和歌集』選者。
脚注
- ^ 実の父は系図上の兄に当たる無位無官の師隆であり、父が無官であるため、顕季を祖父隆経の子としたという説もある(竹内理三『日本の歴史 6 武士の登場』中公文庫、1973年、197頁)。
- ^ 『今鏡』すべらぎの中 第2 釣せぬ浦々
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ 藤原北家山陰流出身
- ^ 『殿暦』
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
外部リンク