漫画家・藤子不二雄(藤本弘と安孫子素雄)の読切、単発作品のタイトル一覧(時系列順)。各年のそれぞれの仕事量、合作状況などを一望できる。
連載作品の一覧(描き下ろし、別冊を含む)は 藤子不二雄の連載一覧 を参照。
8月[1]、中学1年の藤本が『子供の科学』を読んで反射幻燈機を製作。反射幻燈機で上映する作品を安孫子と2人で作ることにする。9月に近所の子どもを集めて上映会を行い、大好評を博す[2]。
中学3年の8月[5]に創刊号を発行[6]。ほぼすべてを藤本と安孫子の2人で執筆した私製雑誌。2号で廃刊[7]。
高校2年の4月から高校3年の4月までの約1年間、ほぼすべてを藤本と安孫子の2人で執筆して作り続けた私製雑誌。近所の子供に回覧して大好評を得た。5冊の現存が確認済。既存作家のパロディ的な作品から、本物の雑誌に投稿したが採用されなかった没原稿まで、多種多様な作品が掲載されている。
高校2年の頃から、短編漫画を雑誌に投稿してプロデビューを目指していた。『まんが道』春雷編「レポート」の回に登場する、手塚治虫へのファンレターのフロクとして執筆された「レポート」内で語られている1950年度の短編漫画作品は以下の通り[3]。
高校1年(1949年末)からプロデビュー後の高校卒業前まで、『漫画少年』、地方新聞、大人雑誌等に1コマ漫画、4コマ漫画、2頁の漫画等を投稿を行った結果、多数の作品が掲載された。
1951年12月に高校3年でプロデビュー。1952年と1953年の作品は、藤本は高岡の自宅で専業漫画家として、安孫子は昼は富山市の新聞社に勤務する兼業漫画家として執筆した。
安孫子は1953年末に新聞社を退社。2人は1954年6月末に上京する。下表を見ると。『一米四方の冒険』から『お化け退治』までの4本の合作は高岡で2人でじっくり執筆したが、上京後は仕事量が増え、単発の作品はほとんど個人で担当していたことがわかる。
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1952
1953
19541〜7月
6月末に上京。両国の2畳の下宿で生活し執筆を行う。10月30日にトキワ荘に転居。下表の11月の欄に記されている作品は、いずれも掲載誌が上旬に発売されているので、両国時代に執筆されたことが確実である。
「漫画少年テーマ特集」を毎月執筆。当初は藤本が担当し、11月からは安孫子が担当(11月から連載『ゆりかちゃん』、12月から連載『海底人間メバル』が始まっており、この2作はいずれも藤本担当作である)。
1954
8
9
10
11
12
1955年の正月に起こした原稿落とし事件により多数の連載を失ったため、同年は多くの読切を執筆した。
実際には、藤本は『ゆりかちゃん』の連載が9月発売号まで続き、その後も『少女』には12月発売号まで毎月読切を執筆したので、この年『少女』への執筆が途切れたのは『ゆりかちゃん』を休載した6、7月発売号のみ。安孫子も漫画少年のテーマ特集連載が9月発売の休刊号まで継続していた。連載が途切れ、仕事が極めて少なかったのは藤本は4〜5月頃、安孫子は8〜9月頃のみで、藤子不二雄としては連載(または毎月掲載の読切)は途切れていなかったことになる。同年末には多くの別冊執筆依頼が舞い込んだため、高岡から姉を呼ばなければいけないほど多忙になる。
1956年から新連載も複数開始され、多数の別冊の執筆も行ったため、読切の数は次第に限られていく。
1955
1
2
3
4
5
6
7
1956
1957
1958
1959
1959年から少年週刊誌の時代となり、読切は毎年数本のみとなる。1961年に川崎市に隣同士で戸建住宅を新築し、10月にトキワ荘から転居。下表の『ロンリーガン』までがトキワ荘時代に描いた作品ということになる。
転居後は川崎の家を自宅兼仕事場としたが、1963年には中野にアニメ制作会社のスタジオゼロを設立し、下北沢に仕事場を借りる。下表では『ハリケーン・ロックの決闘』までが、川崎時代に描いたことが確実な作品である。
若者・大人向け漫画雑誌が次々と創刊され、安孫子は1968年の『黒イせぇるすまん』を皮切りにブラックユーモア短編を次々と発表していく。翌1969年に、藤本も大人向けの『ミノタウロスの皿』を発表する。
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
安孫子は多数のブラックユーモア短編を毎年発表。藤本ものちにSF短編と呼ばれる作品群を増やしていく。その本数は1974年に逆転。安孫子の大人向け作品は連載へと軸を移していく。
1970
1971
1972
1973
1974
藤本は児童漫画の連載と並行して、少年誌、大人向け雜誌に多数の短編読切を発表する。安孫子の読切作はごく限られた本数となる。
1975
1976
1977
1978
1979
ドラえもんブーム、藤子不二雄ブームの時代。藤本の短編執筆は1983年までで落ち着きを見せる。安孫子は大山のぶ代の著書のカバーにドラえもん(藤本単独作)を含むイラストを執筆。「2人で1人の漫画家」としての活動が独立目前の時期も行われていたことが分かる。
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
独立。それぞれ別のペンネームで作品を発表するようになる。
1988
藤本が改名。1989年には手塚治虫の追悼増刊の表紙画を安孫子が、読切漫画を藤本が手掛け、1993年には「私のアトム展」に出展する作品をそれぞれ手掛けるなど、関連した動きが見られる。
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1人の藤子不二雄時代に。
1997
1998
1999
複数のCDジャケット画、書籍のカバー画を手掛ける。
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
2011年に描かれた『怪物くん 怪物ランドへご招待』が、最後の読切漫画作品となった。
2010
2011
2012
2013
2014
2015
2016
2017
2018
2019
2020
2021
2022