裴璆
裴 璆(はい きゅう、877年頃?[1] - ?)は渤海の官人、外交官。3度、日本へ派遣された。寛平6年(894年)の渤海使・裴頲の子[2][3][4]。 経歴907年 - 908年の日本への派遣907年に日本へ派遣された裴璆は、伯耆国に着岸した。延喜8年(908年)1月8日、その旨が都に伝えられ[5]、3月8日[6]または20日[7]、存問渤海客使・藤原博文と秦維興が伯耆へ派遣された。また、4月2日には紀淑光と菅原淳茂が掌客使に、小野葛根と藤原守真が領客使に任じられた[7]。5月、裴璆らは騎馬で入京し[8]、10日に啓と信物を進めた[9]。また、12日には宇多上皇から父・裴遡への手紙を賜った[10][2]。14日、朝集堂で饗応を受けるが、午一刻より雷雨となり、堂内も水浸しとなったため、翌日再度饗応を受けることになった。そして、この席で勅・官牒・答物を賜った[7][11]。 919年 - 920年の日本への派遣延喜19年(919年)、裴璆は再び日本へ派遣され、若狭国に来着し、丹生浦に停泊した。11月18日、その旨が都に伝えられた[12]。12月1日[6]または5日[7]、橘惟親と依知秦広助が存問渤海客使に、大和有卿が通事に任じられた[7]。一方で、朝廷は、裴璆らを越前国・松原客館に遷すことにし[13]、12月24日には若狭国が彼らを遷し終えたことが奏上された。しかし裴璆らが松原客館に着いた際、門は閉じられており、館は無人、何の用意されていないという有様であった[7]。 翌延喜20年(920年)3月22日、裴璆らは時服を賜った[7]。5月8日、入京[5]。入京の間は、京人は禁物を着ることが許された。また、裴璆らには毎日新鮮な鹿二頭が進められた[14]。10日、従三位・裴璆は正三位を授けられた[6]。11日、王啓と信物を進め[5]、12日には豊楽院で宴を賜った[5]。15日、別貢物を進めた[7]。16日、朝集堂で饗応され答信物を賜った[5]。6月、裴璆らは帰郷したが、一行のうち4人が帰らずに日本に留まった[15][16]。 925年の後唐への派遣同光3年(925年)2月、裴璆は後唐に派遣され、「人参・松子・昆布・黄明・細布・貂䑕・皮被一・褥六・髪・靴革・奴子二[17]」を貢した[18]。5月、「政堂省守和部少卿・賜紫金魚袋」裴璆は「右贊善大夫」を賜った[19][20]。 東丹国使926年1月、遼は渤海を滅ぼすとその故地に東丹国を置いた。延長7年(929年)、裴璆は東丹国使として日本へ派遣されて、12月23日[21]または24日[6]、丹後国竹野郡大津浜に着岸した。翌延長8年(930年)1月3日、その旨が都に伝えられ、20日、正税で饗応すべしとした[22]。その後、なぜ東丹国使を名乗っているのかと問われたが、「答状は前後相違」っていた。裴璆は再度問われて、「本は渤海人だったが、今は降って東丹の臣」であると解答し、さらに契丹王の罪悪を言い立てた。醍醐天皇は、「一日人臣となったならば、どうしてこんなことでよいだろう」と呆れ、裴璆らは藤原雅量から勘問されて、過状を進めるよう言い渡された[23][24]。3月2日、裴璆は怠状を進めた[6][25]。
同年夏、雅量から漢詩と着ていた衣を贈られ、裴璆は帰っていった[24]。雅量は「見るならく妻児皆散り去る/何ぞ郷なお買う臣の衣を曳くや」と詠んでいる[26][27]。 関連作品
脚注
参考文献
関連項目 |