西山玄道
西山 玄道(にしやま げんどう)は、江戸時代後期の尾張藩の医師。美濃国久々利村(岐阜県可児市久々利)出身。兼山村(現・同市兼山)で西山家養子として医業を始め、名古屋に出て尾張藩御目見・御用懸医師を務めた。隠居後、久々利村旗本千村平右衛門家侍医。藩奥医師大河内存真、東京大学教授伊藤圭介の実父。晩年西山本家に不幸が続き、家名存続に奔走した。 生涯生い立ち宝暦2年(1752年)8月3日[4]美濃国可児郡久々利村に伊藤長救の末男として生まれた[3]。明和元年(1764年)春兼山村医西山養玄の養子となり[3]、明和5年(1768年)医業を開始した[5]。 名古屋時代天明6年(1786年)6月名古屋七間町一丁目、寛政4年(1792年)3月呉服町一丁目に移り[3]、石川香山、水谷豊文、野間休山に学んだ[5]。文化3年(1806年)6月藩主徳川斉朝に御目見し、文化6年(1809年)6月7日浅野春道の跡目として御用懸医師に就任した[3]。 文化頃長男大河内存真と共に浅野春道、水谷豊文、大窪太兵衛、石黒済庵、岡林清達、柴田洞元、浅野文達等と本草会を開き、後に存真により嘗百社と命名された[6]。 文政6年(1823年)12月老齢のため隠居し、藩主が病気の時に出勤した[5]。 隠居後兼山村の西山本家は義弟養運が継ぐも、文化7年(1810年)夭折、その子養哲も文政8年(1825年)夭折し、遺児太中の後見者となった[7]。母方の伯父仙石三郎左衛門に預けた後、自身の家に引き取って医業を教え、文政12年(1829年)17歳で京都に遊学させたが、翌年春発病して6月死去し、本家筋は断絶となった[7]。 同年8月西山家存続のため、次男伊藤圭介門人大岩養見(養節)を養子に取り、名古屋の家で医業を教えた[7]。天保3年(1832年)6月旧師野間休山の子野間昌甫により病用勤め辞職が出願され[5]、11月兼山村に養節を連れて医業を始めさせた[7]。しかし、御嶽宿・伏見宿の飯盛女を家に連れ込み、偽証文で借金を作るなど素行が悪く、天保4年(1833年)1月2日大病を患うと、西山家には障りが取り憑いているとして大岩家に呼び戻され、間もなく死去した[7]。 玄道は名古屋の家を次男圭介に相続後、兼山村に隠居していたが、その後故郷久々利村に移り、千村平右衛門家侍医を務めた[8]。縁家浅井家とみを養女として西山春成を婿養子に迎え、天保7年(1836年)9月千村家侍医を継がせ、西山家の存続が果たされた[7]。12月兼山村の旧宅を町代藤掛文七に売却した[7]。 天保8年(1837年)頃には足腰が弱ったため呉服町の伊藤家宅に滞在している[8]。天保14年(1843年)4月25日夜七つ時頃92歳で病死した[9]。 家族伊藤家先祖は美濃国岩村藩から久々利村に移り、代々伊藤磯右衛門と称して旗本千村平右衛門家に仕えた[3]。
西山家初代西山養庵(享保7年(1722年)4月没)は恵那郡岩村西山家7代目で、貞享2年(1685年)兼山村に移住し、2代養節(明和4年(1767年)3月没)、3代養玄と医業を営んだ[7]。
脚注参考文献
外部リンク
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