西長野
西長野(にしながの)は、長野県長野市の市街地北西部にある地域(大字)。 西長野町・新諏訪町が属するが、長野市街地内の町(通称名)については住所表示の際に「大字○○」を省くことが多く、郵便番号もそれぞれ単独で与えられている[1]。また、町名(通称名)のほか「袖長野」「塚原」といった小字があるが、これらは原則用いない(省略する)ことが長野市の慣例となっている[2]。つまり、長野市立西部中学校西側の県有地を例にとると以下の3通りの表し方があった。
しかしながら、こうした慣例は市外から来た者にとってわかりにくく、また町名(通称名)が収載されていない地図も多く混乱を来してきたため[2]、長野市は2010年(平成22年)に新諏訪地区について住居表示を施行した。ただし新諏訪地区以外の大字長野・大字南長野・大字鶴賀などでは、依然として上記のような複雑な住所表示が続いている。 全域が長野市役所(本庁直轄)第一地区の管内である。 なお本項では、住居表示を施行した新諏訪についても扱う。大字長野にまたがる往生地については、長野 (長野市)#往生地を参照。 概要西長野は、長野市街地の北西の外れに位置する閑静な住宅地域である。 裾花川の谷口に位置し、地域は扇形に広がる。北西部は葛山の山地である。中央部を国道406号が東西に横切る。周囲は以下の大字・町丁と接する。
明治初期には長野県庁舎が置かれ、周辺は官庁街となったが、1908年(明治41年)の火災で焼失し、転出。その後は長野師範学校とその附属小学校、旧制長野中学校が残り、一帯は文教地区となった。 現在でも長野師範学校の後身の信州大学長野(教育)キャンパスがあり、周辺は小さなアパートなどが多い小さな学生街となっている。 沿革大字西長野と新諏訪一・二丁目の範囲は、概ね1881年(明治14年)時点の上水内郡西長野町の範囲に相当する。
新諏訪町新諏訪町(しんすわちょう)は、長野市街地の北西の郊外に広がる町。新諏訪一・二丁目がある。郵便番号は住居表示実施地区・未実施地区ともに380-0873。 裾花川の谷口に位置する。国道406号(鬼無里街道)が町の中央部を東西に横切り、一丁目と二丁目との境を成す。周囲は以下の大字・町丁と接する。
1882年(明治15年)の加茂神社・諏訪神社氏子間の合意を基に、1936年(昭和11年)4月に西長野町から分かれて起立した町で、町名は諏訪神社に由来する旧腰村の字から名付けられた[3]。その後、長野市の慣例的な住所表示のわかりにくさから、裾花川沿いの里島発電所付近や北側の頼朝山付近を除いて2010年(平成22年)2月に住居表示が施行された[4][5]。 二丁目の諏訪神社には煙火奉納の風習がある。1836年(天保7年)に疫病が流行った際、硫黄・硝石の香りに効能があるとして奉納された「杜煙火」が始まりといい、以後毎年秋祭の折に奉納されている。終戦後も全国の先陣を切って1945年(昭和20年)9月に花火を打ち上げたが、翌月にはGHQにより火薬製造が禁じられることとなった。現在の演目は御神前・手牡丹・立火・額火・仕掛・瓜割の華・清瀧・スターマイン・大綱火など。1998年(平成10年)には「瓜割煙火」として長野市選択無形民俗文化財に選択された[6]。 地区内の人口及び世帯数は以下の通り(令和5年3月1日現在)[7]。
交通
国道406号(鬼無里街道)を走るアルピコ交通(川中島バス)の以下の路線系統が利用できる。 施設新諏訪一丁目新諏訪二丁目
大字西長野新諏訪町
西長野町西長野町(にしながのちょう)は、信州大学教育学部を中心に広がる町。郵便番号は380-0871。 国道406号(鬼無里街道)が町の中央部を東西に横切っている。周囲は以下の町丁と接する。
旧西長野町から、1936年(昭和11年)に新諏訪町を、1941年(昭和16年)に往生地を分けた残部(加茂神社氏子)を町域とする。町域の多くは閑静な住宅街であり、以前の大町街道である桜枝町通り沿いには桜枝町同様に古い商店が立ち並ぶ。 現在の信州大学教育学部の地に、1874年(明治7年)から1908年(明治41年)の焼失まで、長野県庁が置かれていた。その後1913年(大正2年)に妻科の現在地に新築・移転された。 地区内の人口及び世帯数は、533世帯 1,021人(令和5年3月1日現在)[7]。 交通
国道406号(鬼無里街道)を走るアルピコ交通(川中島バス)・ぐるりん号の以下の路線系統が利用できる。
施設
脚注
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