軍事国道(ぐんじこくどう)とは、軍隊の要請によって国により建設ないし運営された道路である。
なお、近代日本の法令に軍事国道ないし軍用国道の言葉は見当たらない。
しかし法令交付の請願などにまつわる文書では軍事国道の言葉が散見されるため、便宜上当時でも通用していたと考えられる。
ここでは旧植民地を除く日本国内における大正から昭和にかけて帝国陸海軍ならびに陸軍省海軍省の要請によって、内務省に認定された国道について記述する。
概要
軍道の存在自体は、人類が軍隊施設を持った頃からあったものである。
世界各国、軍事活動の進展により公費で軍道が整備されていったが、日本でも例に漏れず、明治維新以降、周辺列強諸国からの防衛が必要であると痛感した明治政府は、全国に鎮台・鎮守府を設置してゆく。これらの建設・維持・連絡のために国費で道路の建設費用をまかなう軍用道の必然性が出てきため、1885年(明治18年)内務省告示6号において、全国の国道に番号を付けて公布された中に鎮台を連絡する国道が定められた。さらに大正4年にかけて、鎮守府やのちに鎮台改め各地の重要な師団を連絡する国道が定められていった。
大正時代に入り、戦前の道路整備の基本法となる旧道路法(大正8年4月11日法律第58号)が1919年(大正8年)に公布され、これにより従来の明治期に制定された国道路線は廃止され、いわゆる大正国道が新たに定められた。
- 東京市ヨリ神宮、府県庁所在地、師団軍司令部所在地、鎮守府所在地又ハ枢要ナ開港ニ達スル路線
- 主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線
2.は当初定められなかったが、翌大正9年、内務省告示第125号によって26路線が定められ、明治期と比較してより軍事色の濃い、小規模ながら全国各地個々の軍事施設の諸事情解決を併せ持った、全額国庫負担[1]の国道が誕生した。この法令は言葉として軍事国道とは定められていないが事実上、軍用の国道であり、軍事上の機密もあるため起終点のみ指定された。国道番号には“特”を付与して、特〇号と表し、他の一般国道と区別していた。
当初26路線、総延長275 kmが定められたが、太平洋戦争末期の昭和20年3月1日まで追加認定や区間変更が続き、終戦時には41路線が存在していた。国道である以上、優先的に整備・開削された軍事国道ではあるが、太平洋戦争中期から末期にかけての予算削減や資材不足・労働力不足により一部の国道は全通することもなく計画倒れに終わったり、また修繕すらままならず、4分の1程度は軍用車両の通過すら困難な、一部はけもの道程度の実体のない道路であった。
路線の一覧
補足
- 1934年(昭和9年)時点で、日本の全道路の舗装面積に対する軍事国道総延長288 kmの舗装率はわずか0.09%。一般の国道が16.02%だった。また整地されず車両の通過困難が見込まれる未改良区間は軍事国道全体の87.28%に及んだ。昭和初期の恐慌の要因もあったが、「開通だけして車両さえ通行できればよい」程度が内務省認識であった。
- また、幅員も3.7 m未満が37%(一般国道13%)、3.7-5.5 mが52%(同36%)、5.5-9.0 mが10%(同42%)、9.0 m以上は1%(同9%)と、圧倒的な格差があった。
参考画像
脚注
- ^ 一般の国道は府県に50%負担を求めた。大規模なトンネル、橋梁は33%の負担を求めた。
- ^ 本来用途は竹敷要港部連絡であるが、国道認定前に同部は廃止となっている。
- ^ 正式名称不明、下関要塞管轄の砲台。山口県選定近代化遺産。
- ^ 初期認定時は久慈集落から西古見砲台であったが、1942年に篠川集落まで延長認定され、特15号国道につながった。
- ^ 安脚場砲台跡は安脚場戦跡公園として整備されている。
- ^ a b c 小笠原村戦跡調査報告書/小笠原村教育委員会, 2002.3
- ^ 初期認定時は阿賀集落から広海軍工廠であったが、1942年に呉市中心部まで延長認定され、32号国道につながった。
- ^ 路線の性格は対馬島の南北縦断道。
- ^ 路線の性格は奄美大島縦貫道。
- ^ 特36号国道から分岐、1号国道と接続。
関連項目