野村愛正
野村 愛正(のむら あいせい、1891年8月21日 - 1974年7月6日)は、日本の小説家・脚本家・連句人。本名は「ちかまさ」だが小さい頃から「あいせい」と呼ばれそれを筆名とした[1][2]。 略歴1891年(明治24年)8月21日、鳥取県法美郡大茅村大字楠城村(後の岩美郡国府町大字楠城、現在の鳥取市国府町楠城)生まれ[1][3][4]。鳥取中学(現鳥取県立鳥取西高等学校)を病気のため中退し[1][3][4]、鳥取新報社(新日本海新聞社の前身)に入社[3][4]。1913年(大正2年)上京し文学の道に入る[3][4]。有島武郎に師事し『新潮』『中央公論』などに小説を執筆。 1917年(大正6年)、27歳のときに大阪朝日新聞が本社落成記念として募集した懸賞小説に応募し、『明ゆく路』で一位を獲得した[2][3][4]。『三国志物語』(1940年、大日本雄弁会講談社刊行)は一世を風靡し三国志ブームの魁となった。著作は50冊を数える。また映画の脚本家としても活躍した。 日中戦争が激しさを増す1938年(昭和13年)、著名な作家らがペン部隊を編成して戦地に赴く中、野村も海軍に従軍願いを申請、同年10月までに認められている[3][5]。戦争が激化した1944年(同19年)には帰郷し宇倍野村大字美歎に疎開、児童雑誌『山びこ』を中心に文学指導にあたったが物資不足等により5号で廃刊、1949年(同24年)に東京へ戻る[3]。 1974年(昭和49年)7月6日、心不全により東京都内で死去、82歳没[3]。出身地の国府町楠城(現在の因幡万葉湖付近)には翌1975年(同50年)11月に「野村愛正文学碑」が建立された[3][6]。 連句人として連句人としては生まれつき耳が大きかったことから牛耳という俳号を使用していた[1]。1943年根津芦丈に会い連句を知る。1953年頃海音寺潮五郎亭でひらかれた「ゴーロー連句会」を指導。1959年に結成された都心連句会では推されて捌きを担当。1973年に結成された義仲寺連句会を指導し、林空花、高鳥南万子、石川宏作、鈴木三余、わだとしお(村野夏生)、星野石雀等五十余人の連句実作者を養成した。[7] 著書
翻訳・再話
脚注
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