陰徳太平記『陰徳太平記』(いんとくたいへいき)は享保2年(1717年)に出版された日本の古典文学書の1つである。 正式には『関西陰徳太平記』といい、[1]著者は香川景継(梅月堂宣阿)。 概要全81巻と「陰徳記序および目録」1冊からなり、戦国時代の山陰、山陽を中心に、室町時代12代将軍足利義稙の時代から、慶長の役まで(永正8年(1507年)頃から慶長3年(1598年)頃までの約90年間)を記述した軍記物語。現存するのは山口県文書館蔵本と毛利家蔵本で、前者は昭和初期に焼失した香川家旧蔵本の写し、後者は毛利宗家へ献上されたものとみられる。他に吉川家旧蔵本が存在したが、関東大震災で焼失したという。 陰徳記成立経緯図 二宮俊実覚書 森脇春方覚書(江戸時代に吉川広家の命で吉川老臣の二宮俊実と森脇春方が覚書を記す。) ┗━┳━━━━┛ 安西軍策 ┃ 陰徳記(上記書物を参考に香川正矩が編纂、執筆)
陰徳太平記成立まで三代吉川広嘉の代になると「御家御武勇之儀」を世間に知らせるよう、香川宣阿や宇都宮由的に対して指示が出されるようになる。これが後の家格宣伝活動に繋がる端緒であったと考えられている。[注釈 1] 宝永3年(1706年)1月10日以前に宣阿が板行を願い出るが、この時点では当主吉川広逵が「御幼年」であることを理由に許可が下りなかったが、宣阿が高齢で十分な吟味を行う時間も多くは残されていないことを理由に同年2月24日に最初の出版許可を出した。正徳2年(1712年)には版木が完成し、享保元年(1716年)8月27日になると印刷もほぼ完了し、あとは藩の出版許可を待つのみであったが、板行成就の際は、事前の吟味のため、藩へ報告するよう宣阿に対して指示が出されており、宣阿もこれを了承していた。[注釈 2]しかし、藩の吟味を待てばさらに延引する可能性があった。
などを訴え、印刷完了の後は直ちにに世間へ「指出」ことを願い出た。それを受けた蓮徳院(吉川広紀正室)が最終的に出版許可を出したのが9月10日であり、享保2年に出版となった。[注釈 3] 吉川家の家格の宣伝『関ヶ原軍記大成』・『南海治乱記』は『陰徳太平記』と同じく板行を前提[注釈 4]としたものであった。岩国藩は両書への関与と『陰徳太平記』の板行は、吉川家の家格の宣伝を主たる目的としていた点で軌を一にしており、世上に流布する軍書に吉川氏の主張を織り込む一連の政治活動であった。 吉川家の家格蓮徳院は宝永7年(1710年)に吉川家の「家筋之儀」について萩藩について申し入れを行っている。岩国藩の申し入れに対しては萩藩は「岩国では近頃になって家格が下がったというが、そうではなくはじめから家臣の待遇であったのである」と返答した。これ以降、吉川氏を「陪臣」とする萩藩とそうではないと主張する岩国藩との間で言辞の応酬が繰り返されることとなる。ここに至って、萩藩を介しての家格の昇進は絶望的となり、岩国藩は独自に幕閣への働きかけを強め、家格昇進運動を展開していくことになる。 陰徳太平記の板行は、このような政治情勢の中で行われていた。 両軍書への働きかけ岩国藩の軍書への関与は藩上層部と一部の藩士が知る極秘事項であった。岩国藩の軍書への関与が萩藩から疑われた場合を想定した「答様之心持」を定め行われた。
影響と萩藩の対応『陰徳太平記』の板行は数度に渡って行われており、諸本の存在も徳山毛利家や芸州浅野家といった岩国周辺をはじめとして、20以上の機関において確認される、正徳2年板本の刊記によれば、当初は京都で板行されたものと見られるが、その後は大阪、江戸と板元の所在地も移っており、残存状況からしても広範囲に渡って流布した。 『陰徳太平記』が吉川氏の家格を強く主張するものである以上、この書が板行され、世上に流布することは、萩藩にとって黙視しがたいものであった。[注釈 5]しかし、軍書という形態をとり、対外的にはあくまでも香川宣阿個人の責任において編述されたものである以上は、岩国藩への抗議も儘ならなかった。 萩藩の史官永田瀬兵衛は『新裁軍記』編集に際し、次のように述べている。
これは、陰徳太平記の記述が、当時「実録」として多くの人々に認識されていたことを物語っており、陰徳太平記の板行が実際に影響力を行使していたことを示す事例と言える。[1] また、時代は下るが、文政期に行われた萩藩の三代事跡編集事業の趣旨に対して村田清風が述べた「御三霊様御事跡御編集一事記録」によれば、
とあるように、公儀の記録においても長府藩の『毛利家記』や『陰徳太平記』の記述が採用されていたことが述べられており、吉川家の企図した家格の宣伝が、ある程度功を奏していたことが窺い知ることができる。[1] 評価基本的には山陰地方、山陽地方を中心とした地方史でありながら後土御門院や足利氏の治世にまで記述が及ぶ、「中央志向型地方史」となっており、このために81巻という膨大な冊数で構成されている。この中途半端な中央的視点とあまりに長編であることは、本書の魅力を削いでいると評価される[5]。また、タイトルにあるように陰徳陽報、すなわち「かくれて徳を施していたならば、やがて明るい喜び(むくい)がおとづれる」の思想(また徳川政権の陰に隠れた、という意味も)に基づき史実を改竄し、毛利元就をその理想的人物として描いているが、この結果、人物像が平面的となり、そのことが本書が人気を産まなかった理由のひとつとして指摘されている[5]。文体は虚飾を多用した衒学的なもので、江戸時代中期の儒学者清田儋叟は「濫悪極るといふべし」(芸苑譜)と辛辣に批判している。この頃の軍記物語は武士にとって先祖の栄光や武勇を誇るための手段のひとつであり、史実の改竄や虚飾は本書のみに見られるものではないが(『甲陽軍鑑』や『雲陽軍実記』にもある)、原典と言える『陰徳記』と比べて過剰であるのは確かである[6]。このような理由により、物語としては甲陽軍鑑などに比べ不人気であり、史料としては信頼性がないとされる[注釈 6]。他に、「両書(陰徳記と陰徳太平記)は著作の時期と作者が明らかであり、先行文献も成立時期・著者の判明しているものが少なくないから、軍記の変質する過程を考察する場合などでも扱いやすい。」との評もある[7]。 脚注注釈
出典参考文献
関連項目外部リンク
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