高野 越中(たかの えっちゅう)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。実名は不明。若江八人衆の一人。
略歴
はじめ三好康長に仕えたが、三好信吉(豊臣秀次)が康長の養子になるとその家臣となり、馬廻を務める組頭に任じられた。文禄4年(1595年)に秀次事件で秀次が自害すると石田三成に仕え、慶長5年(1600年)の伏見城攻めには、大山伯耆と共に三成の代理として出陣した。関ヶ原の戦いにも従軍した[1]。
戦後は浅野幸長に仕え、平尾刑部と改名する。後に出家して道斎と号した(『武家事記』『前田家所蔵文書』)[1]。
脚注
- ^ a b 安藤英男; 齋藤司 著「石田三成家臣団事典―三成をめぐる九十二名―」、安藤英男 編『石田三成のすべて』新人物往来社、1985年、208頁。