19区 (パリ)パリの19区 (19く、仏: 19e arrondissement de Paris) は、フランスの首都・パリ市を構成する20の行政区のひとつである [1]。第19区、パリ19区ともいう。市の北東部にあり、セーヌ川の北側に位置している。 概要パリの19区は、市の北東部にある行政区。「ビュット=ショーモン区 (Arrondissement des Buttes-Chaumont)」と呼ばれることもある [2]。セーヌ川の北の地域にある。北から東にかけて、ペリフェリック(パリ環状道路)に沿う形で市の境界線が敷かれており、セーヌ=サン=ドニ県に接している。区の北部は、ラ・ヴィレット貯水池、ウルク運河、サン=ドニ運河及びサン・マルタン運河により分断されている。人口は172,730人 (1999年)で、20区の中では4番目に多い(人口の推移等詳細については後述)。 区の名称は、市の中央部から時計回りに螺旋を描くようにして各区に付けられた番号を基にしており、当区はその19番目にあたることから、「19区」と名づけられた。区内には、ラ・ヴィレット公園、ビュット・ショーモン公園、パリ国立高等音楽・舞踊学校(コンセルヴァトワールないしパリ音楽院ともいう)などがある。 地理19区は、パリの北東部に位置している。セーヌ川の北の地域である [3]。区中央部の北寄りにあるラ・ヴィレット貯水池の東端からはウルク運河が北東方向に、西端からはサン・マルタン運河が南西方向にのびて、区の北部を分断している。ラ・ヴィレット公園の手前では、サン=ドニ運河がウルク運河から分岐し、北へのびている。面積は6.79 平方キロメートルで、20区のうちでは5番目に大きい。 北から東にかけて、ペリフェリックに沿う形で市の境界線が敷かれており、セーヌ=サン=ドニ県の各自治体、北はオーベルヴィリエ、北東はパンタン、東はル・プレ=サン=ジェルヴェに接している。南は、同じパリの行政区である20区に接し、西は10区と18区に接している。 地形
隣接する自治体(行政区)
地区(カルチェ)パリの行政区は、それぞれ4つの地区(カルチェ)に区分されている。19区を構成する4地区のコードと名称は、次のとおりである。
住民人口19区の人口は、1872年には93,174人であったが、その後、増加を続け、1999年には172,730人となり、過去最大の人口を記録した。20区のうちでは4番目に人口が多く、1982年以降は、パリの人口の7パーセント台で推移していたが、1999年には、8パーセント台に突入した。2005年の推計では187,200人と見積もられており、人口の増加が見込まれている。 また、人口の増加とともに人口密度も増加しており、1999年の人口密度は、1872年の約1.9倍の25,454人となっている。人口の推移の詳細は、次のとおりである。
歴史史料の上では、現在の La Villette(ラ・ヴィレット)が1198年には Villa Nova Sancti Lazari (新サン・ラザール街)の名で存在していたことが確認できる。中世になると、la Villette Saint-Lazare(ラ・ヴィレット・サン=ラザール) またはSaint-Ladre(サン=ラドル)と改名された。Saint-Lazare(Saint-Ladre)の名はまた、中世のハンセン病療養所の別名として知られてきた。現在の10区に位置するサン=ラザール病院は、かつてはハンセン病者の療養所として用いられた修道院だった。17世紀にはパリにハンセン病患者はほとんどいなくなっており、修道院はヴィンセンシオの宣教会(ラザリスト会)に譲渡され、その本部として用いられた。フランス革命で修道院は接収され、20世紀はじめまで監獄(Prison Saint-Lazare)として使用された。 フランス革命期の1790年、国民議会によりラ・ヴィレットはアモー(Hameau、ハムレット)からコミューヌ(コミューン)に昇格した。 この村の南(現在のベルヴィル地区)は、Poitroville(ポワトロヴィル) と呼ばれていた。 1860年にティエールの城壁内のコミューンがパリに併合され、このときに19区の区域の設定が行われた。現在の19区付近では、ベルヴィル及びラ・ヴィレットの全域とオーベルヴィリエ及びパンタンの一部がパリに併合されている。 現在のパリ19区及び20区に跨がり、さらに10区と11区に及ぶ地域を包含する"ベルヴィル"は、歴史的にはワイン生産者や葡萄畑の収穫人、採石労働者、石工職人ら労働者階級のコミューンとして発展した。1848年の第二共和政、1871年のパリ・コミューンでは、ベルヴィルのコミューンが大きな役割を果たした。特にパリ・コミューンの時には、Ménilmontant(メニルモンタン)界隈と共に最も大きな抵抗の土台となった。同年5月、パリに再侵攻してきたヴェルサイユの政府軍に対して、この東部の2つのコミューンで流血が飛び散る激しい闘いが絶え間無く繰り広げられ、最後まで残ったバリケードはベルヴィルのRue Ramponeau(ランポノー通り)だったと言われている。 20世紀半ばになると、多くの移民が定住するようになった。1933年のドイツ第三帝国成立によりユダヤ系ドイツ人が、1939年のフランコ独裁政権成立によりスペイン人が、その他イタリア人やポルトガル人ら、60年代にはユダヤ系トルコ人、アルジェリア人やピエ・ノワールらがこの地にやってきた。現在では、これらの出身者以外だと主にマグリブ諸国のアラブ系や(サハラ以南の)アフリカ系の他、13区のトルビアック通り界隈と同様、中国系(華僑系)の旧仏印出身者もベルヴィル界隈で見られるようになり、いわば"中華街"として仏語版「パリのアジア人地区 (Quartiers asiatiques de Paris)」の記事の中でも括られている。
政治・行政・司法主な官公庁・公共機関
教育大学等
文化施設美術館・博物館
映画館・劇場宗教施設教会・寺院
観光・憩い
建築
公園・緑地等
交通鉄道
高速道路・有料道路
道路
広場・交差点パリの「広場 (プラス、Place)」は、しばしば2以上の道路が交差する場所に位置し、中心の「島」を道路が周回するロータリー状の交差点となっている場合が多い。中心の「島」部分は、オベリスクや緑地等に利用されている場合もあり、凱旋門があるシャルル・ド・ゴール広場は世界的に有名である。19区の広場や交差点には、次のようなものがある。
著名な出身者文化
芸能
スポーツ
その他著名な居住者財界・実業
芸能
その他19区を舞台にした作品漫画
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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