1971年のメジャーリーグベースボール以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1971年のできごとを記す。 1971年4月5日に開幕し10月17日に全日程を終え、アメリカンリーグはボルチモア・オリオールズ(東地区優勝)が3年連続5度目のリーグ優勝で、ナショナルリーグはピッツバーグ・パイレーツ(東地区優勝)が11年ぶり8度目のリーグ優勝であった。 ワールドシリーズはピッツバーグ・パイレーツが4勝3敗でボルチモア・オリオールズを破り、11年ぶり4度目のシリーズ制覇となった。 1970年のメジャーリーグベースボール - 1971年のメジャーリーグベースボール - 1972年のメジャーリーグベースボール できごとアメリカンリーグ
ナショナルリーグ
ワールドシリーズ
カート・フラッドの闘い2年前の1969年シーズン終了後に、カージナルスからフィリーズへの移籍を通告されて、このトレードを拒否し翌年1970年1月に訴訟を起こしたカート・フラッドは、前年8月12日に予審判決で敗れ、控訴審に上訴したがこの年4月7日の控訴審判決でも敗れ、連邦最高裁判所へ上告した。そして彼自身は1970年は1年を棒に振り、所属は既にカージナルスからフィリーズに移っていたが、1970年11月にフィリーズからセネタースへトレードされて、この年はセネタースの一員になっていた。しかし13試合に出場したのみで、結局これを最後に引退の道を選択した。上告したので最高裁での口頭弁論が翌1972年3月に行われて、6月に最終意見書が発表された。 サチェル・ペイジの殿堂入りボウイ・キューンコミッショナーは、2年前の1969年に「1946年以前にニグロリーグに所属し、すでにメジャーリーグに10年以上試合出場をしていない黒人選手」の中から野球の殿堂入りに相応しい選手を選出するための特別委員会を設置した。そしてこの年にその第1回表彰選手としてサチェル・ペイジを選出した。 サチェル・ペイジは1906年(1904年とする説がある)にアラバマ州モービルの生れ。本名リロイ・ロバート・ペイジ。7歳でモービル駅のポーターとして働き、その時に両手一杯に肩から掛けるカバン(これをサッチェルという)を持って歩き、あまりに沢山のカバンを抱えるので歩く姿が顔は見えずにカバンだけが歩いているように見えるので「サッチェル」とあだ名されたという。ニグロリーグに入ってからの伝説は沢山あった。21連勝した、62イニング無失点に抑えた、或いは105試合登板して104勝した、とか。1934年のシーズンオフにメジャーリーグのカージナルス(その年ワールドシリーズ制覇)と対戦しデイジー・ディーンと投げ合い1-0で勝った。ペイジの前では快速球を誇ったデイジー・ディーンも平凡な投手に見えたという。またロジャース・ホーンスビーは5三振に打ち取られた。また1936年のシーズンオフにはボブ・フェラーにも投げ勝ち、フェラーは「自分より速いのでは」と驚いた。これを見ていたクリーブランド・インディアンスのビル・ベックGMが戦後1948年に入団契約した。この時サチェル・ペイジは42歳であった。ペイジが初めて先発登板した1948年8月13日に敵地コミスキーパークに集まった観衆は5万1,013人、1週間後に本拠地ミュニシパルスタジアムに集まった観衆は7万8,382人、どちらもホワイトソックスとの対戦でペイジはどちらも完封勝利であった。1949年にペックがインディアンスを去るとペイジも後を追い、1951年にペックがブラウンズのGMになるとペイジもセントルイス・ブラウウンズに入り3年間投げた。1965年8月25日にアスレチックスのオーナーであるフィンリーの発案で客寄せに入団契約して登板し3イニング無失点で降板した。時に59歳2か月で史上最年長のメジャーリーグ登板記録を作った。メジャーリーグのみの通算では179試合・476イニング投げて28勝31敗、奪三振290の記録だが絶頂期を過ぎた42歳からの記録で、ニグロリーグ時代に正確な記録が無いため、通算2000勝・350完封勝利・ノーヒットノーラン55回を達成したと言われている。ジョー・ディマジオが「あんな速いボールは見たことがない」と言い、ペイジをメジャーリーグに導いたビル・ベックは「もし最初からメジャーリーグにいたら、全ての投手記録を書き換えていただろう」と言っている。伝説の史上最高の投手であった。 トニー・コニグリアロの突然の引退この年にレッドソックスからエンゼルスに移籍したトニー・コニグリアロが極度のスランプから7月に引退した。まだ26歳の若さであった。1964年に19歳でメジャーデビューし打率.290・本塁打24本・打点52を打ってトニー・オリバと新人王を争ったコニグリアロは、早くからその長打力に注目が集まり、翌1965年には本塁打32本でアメリカンリーグの本塁打王となり、まだ20歳での史上最年少のホームランキングとなった。3年目は本塁打28本で、4年目の1967年7月にはオールスターに初出場しシーズン途中で22歳の若さで通算100本に達していた。しかし8月の試合で投球を左目の下に受けて頬骨を粉砕骨折し、しかも左目の網膜も傷ついて失明の恐れがあるとされて、病院に運ばれてその後1年間は治療に専念して戦列を離れた。再起不能との声も上がったが1969年に見事カムバックして本塁打20本・打点82を打った。そして1970年には本塁打36本・打点116を打って自己最高の成績を残した。しかし死球禍の後遺症に苦しめられて視覚障害となり、この年にエンゼルスに移ったことも災いして大スランプとなりシーズン終了を待たずに球界を離れた。その4年後の1975年に一度はレッドソックスに戻って球界復帰を目指したが21試合出場して思うようなバッティングが出来ず再び引退した。そして彼の悲運はそれで終わらなかった。1982年、37歳の時に突然心臓マヒに襲われて昏睡状態に陥り、以降8年間ベッドの上で意識が戻らず、1990年45歳で死去した。早くに通算100本の本塁打を打ち、将来を嘱望されていた選手がたった1球のデッドボールで野球人生が暗転し悲劇の主人公となってしまった。 その他
最終成績レギュラーシーズン
オールスターゲーム→詳細は「1971年のMLBオールスターゲーム」を参照
ポストシーズン
リーグチャンピオンシップシリーズ→詳細は1971年のALCS,1971年のNLCS参照
ワールドシリーズ→詳細は「1971年のワールドシリーズ」を参照
個人タイトルアメリカンリーグ
ナショナルリーグ
表彰全米野球記者協会(BBWAA)表彰
その他表彰
アメリカ野球殿堂入り表彰者ベテランズ委員会選出 ニグロリーグ委員会選出 出典
関連項目外部リンク |