2006年9月、計量を終え、ステアダウンを行うマット・ヒューズ (左)とペン
ジェイ・ディー・"B.J."・ペン III (Jay Dee Penn III 、1978年 12月13日 - )は、アメリカ合衆国 の男性 総合格闘家 、柔術家 。ハワイ州 カイルア 出身。BJ・ペンズMMA主宰。元UFC 世界ライト級 王者。元UFC世界ウェルター級 王者。UFC史上2人目の二階級制覇王者 。UFC殿堂 入り。
史上初めてブラジル人 以外で柔術世界選手権 を優勝した選手。寝技だけでなく、名ボクシングトレーナーのフレディ・ローチ から絶賛されるほど優れたボクシング 技術も持つ。また、UFCでライト級とウェルター級の2階級制覇を達成しただけでなく、自身の適性階級より遥かに重いミドル級 、ライトヘビー級 でも強豪と互角以上に渡り合った。
来歴
裕福な家庭で育ったが、少年時代はハワイ島でケンカにあけくれる毎日を送っていた。17歳の頃、近所にできた柔術道場でブラジリアン柔術 を始める[ 2] 。その後間もなくして、ブラジリアン柔術の修行でアメリカ本土へ渡り、1997年にカリフォルニア州 のハウフ・グレイシー の道場に入門。ノヴァウニオン に移籍し、2000年 にアンドレ・ペデネイラス から黒帯を授与される。
黒帯を授与された3週間後の2000年 7月に、柔術世界選手権 に出場して黒帯ペナ(67kg)級で優勝。ブラジル人以外の選手として史上初めて柔術世界選手権を制する快挙を成し遂げた。
総合格闘技デビュー・UFC
2001年 5月4日、総合格闘技 デビュー戦となったUFC 31 でジョーイ・ギルバートと対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。
2001年11月2日、UFC 34 で宇野薫 と対戦し、開始11秒でスタンドパンチの連打によるKO勝ち。
2002年 1月11日、UFC 35 のUFC世界ライト級 タイトルマッチで王者のジェンス・パルヴァー に挑戦し、0-2の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。
2002年9月27日、UFC 39 のライト級王座決定トーナメント1回戦でマット・セラ と対戦し、3-0の判定勝ちで決勝に進出した。
2003年 2月28日、UFC 41 のライト級王座決定トーナメント決勝戦で宇野薫 と再戦し、1-1の判定で引き分け王座獲得はならなかった。
五味戦
2003年10月10日、地元ハワイのRumble on the Rock 4 で五味隆典 と対戦。3Rにチョークスリーパー による一本勝ち[ 3] 。
UFC世界ウェルター級王座獲得
ヒューズ第1戦
2004年 1月31日、階級をウェルター級 に上げUFC 46 のUFCF世界ウェルター級タイトルマッチで王者のマット・ヒューズ に挑戦し、当時ウェルター級で敵無しだったヒューズを圧倒し1Rにチョークスリーパーで破る番狂わせで王座獲得に成功した。
UFCに対戦する意味のある相手がもう残っていないとしてK-1 (FEG )と契約。これに対しUFCは契約違反でありペンは王座防衛を拒否したとして、2004年5月にペンのUFC世界ウェルター級王座を剥奪した。
UFC離脱後
2004年5月22日、K-1 ROMANEX でドゥエイン・ラドウィック とウェルター契約で対戦し、肩固め で一本勝ちを収めた。
2004年11月20日、Rumble on the Rock 6でホドリゴ・グレイシー とミドル級 契約で対戦し、判定勝ちを収めた。
2005年 3月26日、HERO'S 旗揚げ戦において無差別級 契約でリョート・マチダ と対戦。マスト方式の判定0-3で敗れたものの、102kgのマチダに対しペンは86.5kgと15.5kgの体重差があるにもかかわらず互角に渡り合った[ 4] 。
2005年7月29日、 K-1 WORLD GP 2005 in HAWAIIでヘンゾ・グレイシー とミドル級契約で対戦し、判定勝ちを収めた。
UFC復帰
2005年11月19日のUFC 56 でUFCと和解したペンが復帰することが発表された。
サンピエール第1戦
2006年 3月4日、2年1か月ぶりのUFC復帰戦となったUFC 58 でジョルジュ・サンピエール と対戦し、一進一退の攻防の末に1-2の僅差判定負け。
ヒューズ第2戦
2006年9月23日、ジョルジュ・サンピエールの負傷により代役としてUFC 63 のUFC世界ウェルター級タイトルマッチで王者のマット・ヒューズ に挑戦。打撃や変形三角絞めなどで序盤は圧倒しながらも2Rに呼吸困難になるほど肋骨を痛め失速、3RにパウンドによるTKO負けを喫し王座獲得に失敗した。
2007年 、「The Ultimate Fighter 」のシーズン5 でジェンス・パルヴァーと共にそれぞれのチームのヘッドコーチを務め、コーチ対決となった2007年6月23日のフィナーレ でジェンス・パルヴァー と対戦、チョークスリーパー で一本勝ちし、5年半ぶりにリベンジを果たした。
UFC世界ライト級王座獲得・二階級制覇
2008年 1月19日、UFC 80 のUFC世界ライト級王座決定戦でジョー・スティーブンソン と対戦。1Rに右肘打ちで大流血に追い込み、最後はチョークスリーパーで一本勝ちを収め王座獲得に成功、ランディ・クートゥア に続くUFC史上2人目の2階級制覇を達成。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを受賞した。当初は暫定王座決定戦として予定されていたが、王者ショーン・シャーク がUFC 73 においての薬物検査失格で王座を正式に剥奪されたため、正王者の決定戦にスライドする形となった。
2008年5月24日、UFC 84 のUFC世界ライト級タイトルマッチで挑戦者のショーン・シャークと対戦。スタンドの攻防で優位に立ち、3ラウンド終了間際に飛び膝蹴りでダウンを奪うとパウンドを連打、ラウンド終了によりKOはできなかったものの、そのダメージでシャークは試合を続行できず、3R終了時のTKO勝ちにより王座の初防衛に成功した。試合後のマイクでは「Do you want GSP?」と観客を煽り、ジョルジュ・サンピエール との再戦をアピールした。
サンピエール第2戦
2009年 1月31日、ライト級王座を保持したままUFC 94 のUFC世界ウェルター級タイトルマッチで王者のジョルジュ・サンピエール に挑戦。「現代MMA最高の一戦」と銘打たれた試合であったが、拮抗した1R以降は終始ポジショニングで優位に立たれ、パウンドによるダメージの蓄積で4R終了時にコーナーストップによるTKO負けを喫し王座獲得に失敗した。
試合後、ペン陣営は「インターバル中にサンピエールのセコンドがサンピエールの顔にワセリンを塗った手で直後に背中をさすった」(その場で直ぐに背中と胸のワセリンがネバダ州アスレチック・コミッション により拭き取られ、セコンドも注意を与えられている)として提訴したがネバダ州アスレチック・コミッションは違反ではないと判断を下した[ 5] 。この事がきっかけとなり後にルールが改正され、選手のセコンドによるワセリンの塗布が禁止されワセリンを選手に塗布出来るのは公式のカットマンのみとなり、オクタゴンに入る際に、選手はカットマンによりワセリンを塗布された後はセコンドとハグなどの接触が一切禁止されるようになった[ 6] 。
2009年8月8日、UFC 101 のUFC世界ライト級タイトルマッチで挑戦者のケニー・フロリアン と対戦。4Rにチョークスリーパー で一本勝ちし、2度目の王座防衛に成功。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを受賞した。
2009年12月12日、UFC 107 のUFC世界ライト級タイトルマッチで挑戦者のディエゴ・サンチェス と対戦。一度もテイクダウンを許さず、終始打撃で圧倒。最終ラウンドに右ハイキックで額をカットさせてドクターストップによるTKO勝ちを収め、3度目の王座防衛に成功した。
2010年 4月10日、アブダビ で開催されたUFC 112 のUFC世界ライト級タイトルマッチで挑戦者のフランク・エドガー と対戦。5Rを戦い0-3の判定負けにより王座防衛に失敗、2年余りに渡って保持していたライト級王座を失った[ 7] 。海外のMMAメディアサイトの採点では9人中8人の記者がペンの勝利を支持したが[ 8] 、非常に判定の難しい試合内容であり、手数ではエドガー、有効打ではペンと意見の分かれる判定となったため、すぐに再戦が組まれることとなった。
2010年8月28日、UFC 118 で王者のフランク・エドガーとダイレクトリマッチとなるUFC世界ライト級タイトルマッチに挑むが、全ラウンドを通じて手数とテイクダウンの数で上回られ、0-3の判定負けを喫し王座獲得に失敗した[ 9] 。
ヒューズ第3戦
2010年11月21日、階級をウェルター級に上げUFC 123 でマット・ヒューズ と対戦。右ストレートからのパウンドで21秒KO勝ち。ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。ヒューズとのラバーマッチ であり、通算戦績を2勝1敗とした[ 10] 。
2011年 2月27日、UFC 127 でジョン・フィッチ と対戦し、0-1の判定ドローとなった[ 11] 。
2011年10月29日、UFC 137 でニック・ディアス と対戦し、0-3の判定負け。敗れはしたものの、ファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。試合後に「ニックには脱帽だよ。彼は男だ。みんなが俺をこの場所で見るのは恐らくこれが最後だ。俺はトップレベルでのパフォーマンスを続けることが出来なくなった。娘もいるし、もう一人生まれてくる予定なんだ。こんな風になって家に帰りたくはないんだ。」と引退を示唆するが[ 12] 、3日後の11月1日には、暫らく休養を取るつもりだが引退を正式に決めたわけではないと自身の公式サイトで発表し[ 13] 、その後ペンのマネージャーにより現役続行が発表された[ 14] 。
2012年 12月8日、UFC on FOX 5 でローリー・マクドナルド と対戦するも、2RにはボディーブローでKO寸前にまで追い詰められ、0-3の判定負けを喫した。
2014年 4月から放送が始まった「The Ultimate Fighter 」のシーズン19 でフランク・エドガー と共にそれぞれのチームのヘッドコーチを務めた。
2014年7月6日、階級をフェザー級に下げThe Ultimate Fighter 19 Finale でコーチ対決としてフェザー級ランキング3位のエドガーと通算3度目の対戦。ペンはこの試合のためにノヴァウニオン に復帰をしてアンドレ・ペデネイラス のコーチの下、ヘナン・バラオン やジョゼ・アルド とトレーニングキャンプを行っていたが、試合はエドガーに終始圧倒され、3RTKO負け。試合後には「俺は今夜ケージに戻ってくるべきではなかった。ダナ・ホワイト はもう終わりだと言っていたけど、同意しなければならない」と語り、引退を表明した[ 15] 。
2016年 6月5日、UFC 199 でコール・ミラー との対戦が決まっていたが、米国アンチドーピング機関(USADA)が3月25日に競技外抜き打ち検査を実施した際に、ペンがグルタチオンを点滴した事をUSADAの検査官へ報告したところ、グルタチオンは禁止薬物ではないが、点滴行為自体がドーピング規定に違反する行為だとして、6か月の出場停止処分を受けた[ 16] 。ペンはこの事について、グレッグ・ジャクソン のチームドクターにトレーニングの疲労から来る視力の低下やめまいの診断を受けたところ、グルタチオンを点滴投与することを勧められた為、グルタチオンがUSADAの禁止薬物リストに記載されていないことを確認した上で点滴投与したが、計量後の点滴が禁止されたことは知っていたものの、点滴が計量後だけでなく365日1年を通して禁止だったことを知らずに点滴を使用してしまったと弁明した[ 17] 。
2017年 1月15日、2年6か月ぶりの復帰戦となったUFC Fight Night: Rodríguez vs. Penn でフェザー級ランキング10位のヤイール・ロドリゲス と対戦し、パウンドでTKO負け。
2018年 12月29日、階級をライト級に戻しUFC 232 でライアン・ホール と対戦し、ヒールフックで一本負け。自身初の一本負けを喫した。
2019年5月11日、UFC 237 でクレイ・グイダ と対戦し、判定負けを喫した。7連敗となった。
2019年9月、ペンがハワイの路上で平手打ちを貰ってダウンする動画と、ペンが殴った男のバックマウントを取ってパウンドを落とす、2本の動画がTMZ Sportsで記事になる。ペンはその動画について、ペンを平手打ちで殴った男は幼い頃からの友人だが、店で飲んでいたところその友人が突然怒り出し喧嘩をふっかけてきたので、外へ連れ出して、落ち着かせるためにハグをしたが殴られ、それを何度か繰り返してるうちにダウンをしてしまい、起き上がるとまだその友人が殴って来たので、自分の身を守るためにバックマウントを取ってパウンドを落としたのだと釈明をした。また、動画をリークした持ち主に一部を切り取ったものではなく今回の件の全体像がわかるように全編の動画を出して欲しいと訴えた。なお警官が駆けつけたものの、友人とペン両者ともに被害を訴えなかったためどちらも逮捕されず、捜査もされなかった[ 18] [ 19] 。
2019年9月27日、UFCからリリースされた[ 20] 。
2022年のハワイ州知事選挙に共和党から立候補することを表明し、共和党予備選で26.1%の得票率を獲得したものの当選したデューク・アイオナ(得票率49.6%)に次ぐ次点に終わった[ 21] 。
人物・エピソード
アメリカの月刊誌KoreAm の表紙に起用されるペン (2008年7月号)
ニックネーム"B.J. "の由来は、ペンの両親はペンの兄弟の内3人にジェイ・ディー・ペン(それぞれI世、II世、III世)と名付けており、その中で最年少であるペンは"Baby Jay "(ベイビー・ジェイ)と呼ばれていたが、そのニックネームを短縮したものである。
ニックネームの神童・天才 (ザ・プロディジー)は、ブラジリアン柔術は黒帯を取得するだけでも10年かかるとされているが、ペンはブラジリアン柔術を本格的に始めてからわずか3年で柔術世界選手権 を優勝したことで、この並外れた偉業を讃えられそう呼ばれるようになったことに由来する。
2004年にUFCを離脱してFEG と契約してからUFCに復帰するまでの間は無差別級 世界最強を目指して階級を上げていた。ミドル級 のホドリゴ・グレイシー に寝技で完封勝ちし、ライトヘビー級 で無敗を誇るリョート・マチダ と無差別級契約で対戦して15kg以上の体重差をものともせずに互角に渡り合う活躍を見せた。
ボクシング 史上に残る名トレーナーであるフレディ・ローチ が「私がこれまで見たMMA ファイターの中でもBJ・ペンはベストストライカー だ」とペンのボクシング技術を絶賛している[ 22] 。
山本"KID"徳郁 と親交が深い。一緒に練習した際にKIDは「BJは強い。特に寝技のスパーリングでは一回も勝てなかった」と苦笑交じりに語っている[ 23] 。
2005年5月7日、Rumble on the Rock 7 の大会終了後にパーティ が行われていたワイキキ のナイトクラブ の外で警察官 に暴行を働いたとして逮捕 された[ 24] [ 25] 。ペンの弁護士 によると、ペンは彼の兄弟を騒ぎから救おうとしていて、群衆に入るために誰かを彼の側の方に押しやったところ、それがたまたま警官だったとのこと[ 26] 。ペンは2007年8月に告訴に対する申し立てをせず、2007年12月11日に1年の執行猶予 を受けた[ 27] 。
戦績
総合格闘技 戦績
32 試合
(T)KO
一本
判定
その他
引き分け
無効試合
16 勝
7
6
3
0
2
0
14 敗
4
1
9
0
獲得タイトル
表彰
ペイ・パー・ビュー販売件数
出演
CM
脚注
関連項目
外部リンク
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