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ジェームズ・ブライス

初代ブライス子爵
ジェームズ・ブライス
James Bryce
1st Viscount Bryce
1902年撮影
生年月日 (1838-05-10) 1838年5月10日
出生地 イギリスの旗 イギリス
アイルランド ベルファスト
没年月日 1922年1月22日(1922-01-22)(83歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
デヴォンシドマス英語版
出身校 グラスゴー大学
オックスフォード大学トリニティ・カレッジ
所属政党 自由党
称号 メリット勲章 (OM)
ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス (GCVO)
枢密顧問官 (PC)
王立協会フェロー (FRS)
イギリス学士院フェロー (FBA)
サイン

内閣 キャンベル=バナマン内閣
第1次アスキス内閣
在任期間 1907年 - 1913年
国王 エドワード7世
ジョージ5世

内閣 キャンベル=バナマン内閣
在任期間 1905年12月5日 - 1907年1月23日
国王 エドワード7世

内閣 ローズベリー伯爵内閣
在任期間 1894年5月28日 - 1895年6月21日
女王 ヴィクトリア

内閣 第4次グラッドストン内閣
在任期間 1892年8月18日 - 1894年5月28日
女王 ヴィクトリア

内閣 第3次グラッドストン内閣
在任期間 1886年2月7日 - 1886年7月20日
女王 ヴィクトリア
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初代ブライス子爵ジェームズ・ブライスJames Bryce, 1st Viscount Bryce, OM, GCVO, PC, FRS, FBA 1838年5月10日 - 1922年1月22日)は、イギリス法学者歴史学者政治家

生涯

アイルランドベルファストに生まれ、グラスゴーで教育を受ける。オックスフォード大学に進み、ハイデルベルク大学に留学中、中世文学・ドイツ史に関する資料を蒐集し、アーノルド懸賞論文として『神聖ローマ帝国』(The Holy Empire, 1864年)を提出・出版。たちまち版を重ねて、ドイツ語イタリア語フランス語ポルトガル語の諸国語に翻訳され、史家としての名声を確立した。オックスフォード大学ローマ法欽定講座担任教授となり、1870年から1893年まで務める。1894年には英国学士院の会員。1914年に叙爵され、第1代ブライス子爵となる。

自由党議員として1880年にタワーハムレッツ区から選出されて庶民院に入り、第3次グラッドストン内閣では外務次官(1886年)、1892年から1894年第4次グラッドストン内閣ではランカスター公領大臣1894年から1895年ローズベリー内閣では商務院総裁キャンベル=バナマン内閣ではアイルランド事務相、ついで1907年から1913年には駐米イギリス大使となる。アメリカ合衆国へは3度ほど渡りその旅行の成果としては『アメリカ共和国』(American Comonwealth, 1888年)がある。「ニューヨーク・タイムズ」紙は、「かつて一英国人、否イギリスによって与えられた、もっとも意義深く感謝に値する贈り物」と評し、「ニューヨーク・トリビューン」紙はアメリカ人が自国の政治組織を知る上で最良の教科書として推薦した。

ブライスは非常な旅行家で、また1876年にはアララト山に登頂し、1899年から1901年には英国山岳会の会長であった。中央カフカースについての著書もある。1897年南アフリカ共和国についての印象記を公表し、それはボーア戦争を論議していた自由党のサークルに重視された。

1913年に公職を退いたあとも、日本オーストラリアニュージーランドを歴訪し、第一次世界大戦勃発後に「ドイツのベルギーにおける暴力調査委員会」に挙げられ、1915年に発表されたその報告は、ブライスの名声と相まって、アメリカの参戦に影響を与えたという。しかしこの「ブライス報告」は、イギリス政府が仕掛けたプロパガンダであり、第一次世界大戦後の検証の結果、報告されたようなドイツ兵による残虐な行為の証拠は見つからなかった。国際的に著名で信頼のある学者によるプロパガンダは大きな効果を発揮し、アメリカでドイツ兵による残虐な行為の有無を疑っていた人さえも、ブライスの名を聞いて信じてしまったほどであった。その多忙な晩年に執筆・公刊された『近代民主政治』(Modern democracies, 1921年)について、「ロンドン・タイムズ」紙は「82歳の高齢でたゆまぬ研究と旅行の結果として1200ページもの大著を出した事例が他にあるだろうか」と称えた。

日本でも早くからブライスの著作は紹介され、『平民政治』(1890年、明治23年)、『神聖羅馬帝国』(1924年、大正13年)、『近代民主政治』(1928年、昭和3年)と主著が翻訳・出版されている。

「地方自治は民主主義の最良学校であり、その成功の最良の保証人である」という箴言を残している。[1]

脚注

  1. ^ ジェームズ・プライス著、松山武訳『近代民主政治』第1巻 1929, p. 160.
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ジョセフ・ダグイラー・サミューダ英語版
タワー・ハムレット選挙区英語版選出庶民院議員
1880年 - 1885年
廃止
新設 アバディーン南選挙区英語版選出庶民院議員
1885年 - 1907年
次代
ジョージ・バーニー・エスルモント英語版
公職
先代
サー・ロバート・ブーク英語版
外務省政務次官英語版
1886年
次代
サー・ジェームズ・ファーガソン準男爵英語版
先代
第7代ラトランド公爵
ランカスター公領大臣
1892年 - 1894年
次代
第2代トウィードマス男爵英語版
先代
A・J・マンデラ英語版
商務大臣
1894年 - 1895年
次代
チャールズ・リッチー英語版
先代
ウォルター・ロング英語版
アイルランド担当大臣英語版
1905年 - 1907年
次代
オーガスティン・ビレル英語版
外交職
先代
サー・ヘンリー・モーティマー・デュランド英語版
在アメリカ合衆国イギリス大使
1907年 - 1913年
次代
サー・セシル・スプリング・ライス英語版
爵位・家督
新設 ブライス子爵
1914年 - 1922年
廃絶
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