スティクス (バンド)
スティクス(Styx)は、アメリカ合衆国出身のロックバンド。 1970年代の米国産プログレッシブ・ロック「アメリカン・プログレ・ハード」を代表するバンドの一つ。1980年代初頭にピークを迎えて隆盛を極め、日本でも代表曲「ミスター・ロボット」のヒットなどが知られた。 概要日本ではアメリカン・プログレ・ハードなどのジャンルに括られることが多いが、デビュー当初のサウンドはプログレッシブ・ロックの色彩が強く、長大な楽曲も多く制作していた。 時代の流れの中で音楽性は徐々に変化。よりコンパクトでポップな作風へと変わり、結果的にそれが1980年代初頭の商業的成功へと繋がっていった。 概歴結成まで(1963年 - 1972年)1963年、シカゴでチャック(ベース)とジョン(ドラム)のパノッツォ兄弟が中心となってバンド活動を開始する。その後デニス・デ・ヤング(ボーカル、キーボード)が加入してバンド名が「ザ・トレイドウンズ」となる。 当初はローカル・バンドに過ぎなかったが、1968年にジョン・クルリュウスキ(G)が加入し、バンド名を「トレイドウインズ4」と改名してプロ活動を目指し始める。 1970年にジェイムス・ヤング(ギター)が加入。その半年後に製作したデモ・テープが、RCA傘下「ウッデンニッケル・レコード」の代表を務めるビル・トラウトに認められて契約。後にバンド名を「スティクス」と改名した。 黎明期(1972年 - 1975年)1972年、1stアルバム『スティクス』でデビュー。13分以上ある曲を収め、大衆受けはしなかったが、プログレッシブ・ロックのファンに受け入れられる。 1973年、2ndアルバム『スティクスII』をリリース。1stではカヴァー曲を混ぜていたが、完全オリジナルのアルバムとして方向性を決定付けた。 1974年、3rdアルバム『サーペント・イズ・ライジング』、4thアルバム『ミラクルズ』を発表。この時期からポップ性を意識し始め、大作志向から短い曲へと変化していく。 1975年、2年前に発売された2ndアルバムに収録されていたシングル「憧れのレイディ(Lady)」が、2月から徐々にチャートを上昇。8月には全米6位まで上昇し、これに伴い同アルバムもセールスが延びてゴールドディスクを獲得する。このヒットにより同年秋、大手レーベル「A&Mレコード」に移籍した。移籍第一弾の5thアルバム『分岐点』の制作後、全米ツアー前に音楽性の違いからクルリュスキが脱退。代わって元MS FUNKのトミー・ショウ(ギター、ボーカル)が加入した。 隆盛期(1976年 - 1984年)トミーが加入した事で、6thアルバム『クリスタル・ボール』が幅広い層からの支持を獲得。翌1977年発表の7thアルバム『グランド・イリュージョン - 大いなる幻影』が全米トップ10入り。シングル「Come Sail Away」が全米8位。8thアルバム『ピーシズ・オブ・エイト - 古代への追想』(1978年)も全米8位を記録し、バンドの評価が高まる。 1979年、シングル「Babe」が全米No.1を獲得[7]、9thアルバム『コーナーストーン』が全米2位の大ヒットとなり、スティクスは一流バンドとしての成功を手にする。一方で、欧米の音楽メディアからはコーポレート・ロック、日本では産業ロックなどと批評もされた。 1981年、10thアルバム『パラダイス・シアター』からのシングル「The Best of Times」が全米3位、「時は流れて」が全米9位となり、同アルバムが初の全米1位を記録した[8]。 1982年1月、アルバム『パラダイス・シアター』を主作品とした初来日ツアーが開催された。この模様がNHKで放映されている。翌1983年には11thアルバム『ミスター・ロボット - キルロイ・ワズ・ヒア -』がリリースされ、日本語の歌詞が含まれたシングル「ミスター・ロボット」が収録されて話題になるなど、日本でもヒットを記録した[9]。 その後デニスとトミーとの間に亀裂が生じ、翌年にバンド活動が停止。各々がソロ活動に移行していき、1980年代後半頃にはバンドの存在が薄れていった。 停滞期(1990年 - 1994年)1990年、トミーがハードロックバンド「ダム・ヤンキース」に参加。テッド・ニュージェント、ジャック・ブレイズ(ナイト・レンジャー)らが結成したスーパーグループであった[10]。同じ頃バンドの再始動を企図していたデニスらは、トミーの招集を断念。代役グレン・バートニックが加入して活動を再開する。 同年の暮れに7年ぶりの12thアルバム『エッジ・オブ・ザ・センチュリー』をリリース。シングル「Show Me the Way」が全米3位を獲得し復活の兆しが見えたものの、北米のロック界にグランジ・ムーブメントが到来。旧態依然のロックにはレーベルのサポートが減少して受難の時代となり、当バンドの再活動も短期で終了した。 トミー側も「ダム・ヤンキーズ」で2枚のアルバムを出した後、中心のテッド・ニュージェントが脱退。残るブレイズと「ショウ・ブレイズ」というユニットで継続し、活動規模は縮小した。 リユニオンから内紛へ(1995年 - 2002年)1995年、トミーが復帰し全盛期メンバーでの再結成が実現する。しかしジョン・パノッツォが健康問題で即降板し、代役にトッド・ズッカーマン(ドラム)が加入。そして翌1996年、ジョンは症状が悪化し帰らぬ人となってしまった。ツアーはジョンの追悼ライブとして開催し、新曲も数曲披露された。この模様はライブ・アルバム用としても収録され、『リターン・トゥ・パラダイス』(1997年)と題してリリースしている。 同ラインナップを維持し、1999年に9年ぶりの13thアルバム『ブレイヴ・ニュー・ワールド』をリリース。しかしこの間、デニスとトミーの確執が再燃。この時期にデニスが健康を害したという理由で活動が停滞。バンド側は活動に支障をきたすとして、ローレンス・ガーワン(ボーカル、キーボード)を代役に立てて継続し、デニスは降板させられた。 2000年、2度目の来日公演。また同時期に創設メンバー チャック・パノッツォが、フルタイムの活動を控えるようになる。グレン・バートニック(ベース)が復帰し、チャックと併用する形で編成する。 2001年、降ろされたデニス側が「健康上の理由で一時的に降板したのであり、自分無しでのバンド続行は無効である」と主張。同意を得ないバンド活動と、デニス自身が創作した曲の差し止め訴訟を起こす。また個人的に、スティクス関連の活動も始めていた。それにはバンド側も反訴し、結果はデニス個人によるスティクスを冠した活動も許可されるも、個人名に「Formerly Styx」や「Performing The Music Of Styx」などの但し書きを義務付ける事で決着。事実上デニスの敗訴であり、両者は修復不可能な状態となった。 新体制以降(2003年 - )ローレンス・ガーワン起用の新体制が定着し、2003年に14thアルバム『サイクロラマ』をリリース。グレン・バートニックに代わり、リッキー・フィリップス(ベース、ギター)が加入する。 以降はライブを中心とした活動にシフト。特に2007年から2015年の間に「デフ・レパード」「フォリナー」「ボストン」「REOスピードワゴン」「38スペシャル」「イエス」「テスラ」など著名なバンドらとツアーを合同する[11]。 2005年、カヴァー企画の15thアルバム『Big Bang Theory』をリリース。 2010年、旧作『グランド・イリュージョン - 大いなる幻影』『ピーシズ・オブ・エイト - 古代への追想』を完全ライブで再現[12]。 2017年、自主レーベル「Alpha Dog 2T」を設立。14年ぶりの16thオリジナルアルバム・コンセプト作品『The Mission』[13]、2021年には4年ぶりの17thアルバム『Crash of the Crown』を発表[14]。 メンバー※2021年7月時点 現ラインナップ
旧メンバー
ディスコグラフィスタジオ・アルバム
ライブ・アルバム
コンピレーション・アルバム
シングル
EP
参考文献
脚注
外部リンク |