トニー・ブルックス
チャールズ・アンソニー・"トニー"・スタンディッシュ・ブルックス(Charles Anthony "Tony" Standish Brooks, 1932年2月25日[1] - 2022年5月3日[2])は、イギリスの元レーシングドライバー[1]。 経歴元々は歯科医生という経歴を持ち、レースは趣味[1]で、クラブイベントからレースをスタートした。 1955年1955年のル・マン24時間レース[1]でアストンマーティン[1]DB3Sの25号車に乗ったのが、国際レースへの最初の出場となった[注釈 1]が、バッテリー破損で9時間目にリタイヤとなった[3]。1955年、F2への参戦で、初めてシングルシーター車をドライブした。また同年、コンノートからF1のノンタイトル戦にも参戦した。 1956年1956年第2戦モナコグランプリにて、BRMからF1に初参戦。予選を13位で通過したが、決勝は走行できずデビューはならなかった。その後、地元となる第6戦イギリスグランプリにて、再びBRMから参戦。予選9位から決勝も走行し、F1デビューを果たした(結果はリタイヤ)。 1956年のル・マン24時間レースではDBR1/250[4]の14号車[4]に乗り、凄まじいエンジン音を出し[4]、ユノディエールで最高速度210.897km/hを記録[4]し、夜中には4位にのし上がる[4]などかなり目立った走り[4]をしたが、24時間目に入ってから7位で走行中[4]ミュルサンヌで[4]リアアクスルが故障[4]しリタイヤとなった[4]。 1957年1957年は、BRM同様イギリスチームであるヴァンウォール[1]に移籍し、F1本格参戦。初陣となる第2戦モナコグランプリでは、予選4位から2位に入賞、初の表彰台を記録した。アストンマーティン[1]でニュルブルクリンク1000kmレース[1]で優勝[1]した。 形式上組み込まれていたに過ぎない第3戦アメリカグランプリ、ル・マン24時間レースでの負傷が癒えていなかった第4戦フランスグランプリの2戦を欠場後、第5戦イギリスグランプリでは予選3位を獲得。決勝では、エースドライバースターリング・モスとのシェアドライブ[注釈 2][1]ながら優勝を記録し、自身・チームに加え、イギリス車全般においてもF1初となる勝利を、地元で達成する結果となった[注釈 3]。 また最終戦イタリアグランプリでは、最終的にリタイヤとなったものの、初のFLを記録した。 1957年のル・マン24時間レースではDBR1[5]に乗り6位を走行中[5]、朝の2時頃にトニー・ブルックスに交代してすぐテルトルルージュ[5]でコースからはみ出した[5]ところにウンベルト・マリオーリ[5]のポルシェに激突されて病院搬送[5]され、2人とも奇跡的に擦り傷だけで済んだ[5]もののリタイヤとなった。 1958年1958年もヴァンウォールに残留[1]。チームが開幕戦アルゼンチングランプリを欠場したため、第2戦モナコグランプリが初陣となった。ブルックスはその予選において、自身初のPPを獲得している(決勝はリタイヤ)。 第4戦ベルギーグランプリでは、予選5位から序盤にトップに立ち優勝、単独での初優勝[1]を達成した。その後も第8戦ドイツグランプリ[1]と第10戦イタリアグランプリ[1]で優勝、どちらも予選2位からの勝利だった。 この計3勝などで、ドライバーズランクではマイク・ホーソーン、スターリング・モスに次ぐ3位を獲得し、またチームの初代コンストラクターズタイトル獲得にも貢献。この年引退したファン・マヌエル・ファンジオは、自身去りし後のF1牽引者として、真っ先にブルックスの名を挙げたという。 1958年のル・マン24時間レースではモーリス・トランティニアンと組んでDBR1[6]に乗り3-4位を争っていた[6]が、朝の5時50分頃[6]トランスミッション不調[6]のためミュルサンヌでリタイヤ[6]となった。 この年のTTレースではスターリング・モスと組んで勝利した[1]。 1959年1959年はヴァンウォールが活動を大幅に縮小し、参戦は第5戦イギリスグランプリのみとなった。ブルックスは、そのレースのみ同チームからエントリーしたが、残りのレースはフェラーリ[1]から出走。開幕戦モナコグランプリで2位に入り、幸先の良いスタートを切った。 シーズン中盤、第4戦フランスグランプリにおいて予選でPPを獲得し、決勝でも優勝[1]。自身初のポールトゥーウィンを達成した。しかしイギリスグランプリをフェラーリのストライキにより欠場しポイントを重ねることができず、これがチャンピオンシップに大きく響いた。2ヒート制となった第6戦ドイツグランプリでも、2度目のポールトゥーウィンを記録しての勝利[1]。この際は、FLも獲得しての完全勝利だった。世界チャンピオンは目の前だったがイタリアグランプリのスタートでクラッチを焼いてしまい、結果としてタイトルを逃した[1]。最終戦アメリカグランプリでの3位により、ジャック・ブラバムに次ぐランキング2位[1]でシーズンを終了。これが自身のベストランクとなった。 1960年1960年はBRPに移籍し、プライベーター使用のクーパーから参戦。しかし前年同様、ヴァンウォールが第6戦フランスグランプリの1戦のみエントリーし、そのレースは同チームから出走した。 ブルックスは第2戦モナコグランプリが初陣となり、そのレースでは予選3位から4位入賞。また第5戦ベルギーグランプリでは、予選2位を獲得している(決勝はリタイヤ)。しかし、他のレースでは下位グリッドに沈み、モナコグランプリ以後の入賞も第7戦イギリスグランプリ・第8戦ポルトガルグランプリにおける2度の5位に留まった。 1961年1961年はデビューチームであるBRMに舞い戻ったが、前年以上に低迷。完走しても入賞圏外というレースが続き、第6戦ドイツグランプリ終了時点では未だノーポイントであった[注釈 4]。 その後、第7戦イタリアグランプリで5位に入り、シーズン初入賞。続く最終戦アメリカグランプリでは3位に入り、2年ぶりに表彰台に立ったが、結局このレースをもってレースキャリアを終了。29歳での引退だった。その後は歯科医に専念している[1]。 レース戦績フォーミュラ1
フォーミュラ1 (ノン・チャンピオンシップ)
ル・マン24時間レース
注釈
出典
参考文献
関連項目 |