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ドイツ自由思想家党

ドイツの旗 ドイツ帝国政党
ドイツ自由思想家党
Deutsche Freisinnige Partei
成立年月日 1884年3月5日
前身政党 ドイツ進歩党
自由主義連合ドイツ語版
解散年月日 1893年5月7日
解散理由 左派と中道派の分裂
後継政党 自由思想家人民党
自由思想家連合
政治的思想・立場 自由主義左派[1]
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ドイツ自由思想家党ドイツ語: Deutsche Freisinnige Partei、略称DFP)は帝政時代のドイツの自由主義左派政党。1884年ドイツ進歩党自由主義連合ドイツ語版が合同して結党したが、1893年に自由主義左派政党自由思想家人民党と自由主義中道政党自由思想家連合に分裂して解党した。

党史

首相ビスマルクに反対するブルジョワ自由主義左派政党としてはドイツ統一前からドイツ進歩党が存在した。一方自由主義右派政党国民自由党内でも1870年代後半からの保護貿易論の高まりの中で1880年8月にはルートヴィヒ・バンベルガードイツ語版エドゥアルト・ラスカードイツ語版ら自由貿易を奉じる党内左派議員28名が右派の党首ルドルフ・フォン・ベニクセンの親ビスマルク方針や保護貿易方針に反対して離党し、ほどなく自由主義左派政党自由主義連合ドイツ語版を結成するようになった[1]

1882年にビスマルクが財政改革の一環としてタバコ専売を企図した際、進歩党左派は抗議運動を組織し、タバコ専売法案は帝国議会で否決された。この成功で進歩党左派の指導者オイゲン・リヒタードイツ語版のリーダーシップが強まった。リヒターは自由主義連合と合同することによって自由主義左派内における自らの指導権を確保しようとし、1884年3月5日に進歩党と自由主義連合は合同し、ドイツ自由思想家党を結成することになった[1]

結党直後の1884年10月の帝国議会選挙ドイツ語版でドイツ自由思想家党は国民自由党を超える67議席を獲得し、ビスマルクを脅威した[2]

1887年の帝国議会選挙ドイツ語版ではビスマルクが保守党帝国党、国民自由党に「カルテル」と呼ばれる選挙協定を結ばせたことが功を奏し、ドイツ自由思想家党は67議席から32議席へ激減した[3]

ビスマルク首相下最後の選挙である1890年の帝国議会選挙ドイツ語版は、カルテルが敗北し、自由思想家党も66議席に回復した。

しかしリヒターの左派的な党指導に対しては、バンベルガーやテオドール・バルトドイツ語版ら中道的な者たちが不満を抱いており、内部分裂が起きるようになった。1893年5月6日の首相レオ・フォン・カプリヴィの陸軍軍人増員法案の採決の際に自由思想家党はリヒターら法案反対の多数派とバンベルガーら法案賛成派に分裂した。これにより、前者は自由思想家人民党、後者は自由思想家連合を結党し、ドイツ自由思想家党は解党することになった。この分裂の影響で直後の帝国議会選挙ドイツ語版は両党合わせても37議席しか取れなかった[4]

両党は1910年になってドイツ人民党ドイツ語版も加わって進歩人民党として再結集することになる[5]

主な所属議員

帝国議会選挙の党勢

選挙日 得票 得票率 得票順位 獲得議席(総議席) 議席順位
1884年10月28日ドイツ語版 997,000票 17.6% 第2党[注釈 1] 67議席(397議席) 第3党[注釈 2]
1887年2月21日ドイツ語版 973,100票 12.9% 第4党[注釈 3] 32議席(397議席) 第5党[注釈 4]
1890年2月20日ドイツ語版 1,159,900票 16.0% 第4党[注釈 5] 66議席(397議席) 第3党[注釈 2]

脚注

注釈

  1. ^ 中央党(Zentrum)に次ぐ
  2. ^ a b 中央党(Zentrum)、ドイツ保守党(DKP)に次ぐ
  3. ^ 国民自由党(NLP)、中央党(Zentrum)、ドイツ保守党(DKP)に次ぐ
  4. ^ 国民自由党(NLP)、中央党(Zentrum)、ドイツ保守党(DKP)、ドイツ帝国党(DRP)に次ぐ
  5. ^ ドイツ社会民主党(SPD)、中央党(Zentrum)、国民自由党(NLP)に次ぐ

出典

参考文献

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