ドン・シュラDon Shula |
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基本情報 |
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ポジション |
ディフェンシブバック |
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生年月日 |
(1930-01-04) 1930年1月4日 |
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没年月日 |
(2020-05-04) 2020年5月4日(90歳没) |
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出身地 |
アメリカ合衆国 オハイオ州グランドリバー |
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身長: |
5' 11" =約180.3cm |
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体重: |
190 lb =約86.2kg |
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経歴 |
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大学 |
ジョンキャロル大学 |
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NFLドラフト |
1951年 / 9巡目全体110位 |
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所属歴 |
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受賞歴・記録
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その他受賞・記録(選手として) |
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NFL最優秀コーチ(1964・1967・1968・1972) |
NFLチャンピオン(コーチとして) |
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1968 |
スーパーボウル制覇(コーチとして) |
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第7回・第8回 |
NFL 通算成績 |
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Player stats at PFR |
Coaching stats at PFR |
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ドナルド・フランシス・シュラ(Donald Francis Shula、1930年1月4日 - 2020年5月4日)は、アメリカ合衆国オハイオ州グランドリバー出身のアメリカンフットボール選手・コーチ。息子のデイブ・シュラもシンシナティ・ベンガルズでヘッドコーチを務めた。
ディフェンシブバックの選手としてNFLのキャリアをスタートし、コーチに転身後、長年マイアミ・ドルフィンズのヘッドコーチを務め、スーパーボウルを2度制覇、1972年シーズンにはシーズン無敗でのスーパーボウル制覇を果たした。ボルチモア・コルツ時代と合わせて合計6回スーパーボウルに出場した[1]。
1963年シーズンにボルチモア・コルツのヘッドコーチに就任してから、1995年シーズンオフにマイアミ・ドルフィンズのヘッドコーチを退任するまでの33シーズンで負け越したシーズンは2シーズンのみ(1976・1988)であり、通算成績は、328勝156敗6分であった[2]。またヘッドコーチとして526戦指揮しており、プレーオフも含めると347勝しており、シカゴ・ベアーズのジョージ・ハラスより23勝多い勝ち星をあげている。彼の指揮したチームは21シーズンで10勝以上をあげ、プレーオフには19回出場した。またコルツ時代には3回最優秀コーチに選ばれている。NFLで300勝以上あげたヘッドコーチは、2019年シーズン終了時点で、シュラの他には、ジョージ・ハラスとビル・ベリチックのみとなっている[3]。バッファロー・ビルズを4年連続スーパーボウルに導いたマーブ・リービーは、シュラをプロフットボール史上最も偉大なコーチであると評価している[1]。
1997年、プロフットボール殿堂入りを果たした。彼がコーチとして指導した3人のQB、ジョニー・ユナイタス、ボブ・グリーシー、ダン・マリーノも殿堂入りを果たしている[3][1]。NFLのルール改正にも長年関わっており、それまでレシーバーに対する守備選手のホールディングの反則のルール改正に関わり、それによってオフェンスが有利となり、NFLの試合がハイスコアのパス全盛につながった[1]。
2020年5月4日、死去[4]。
経歴
プロ入りまで
エリー湖のそばにあるオハイオ州北東部にあり、クリーブランドから東に約40マイルの小さな町、グランドリバーで生まれた[1]。両親はいずれもハンガリー系であり、いずれも小さいときにアメリカに移住した。
高校ではシングルウィングオフェンスの左ハーフバックとしてプレー、最終学年のときにチームは7勝3敗の成績を残した。高校が7勝をあげたのは18年ぶりのことであった。
ジョンキャロル大学に進学、1年次の1948年、ヤングスタウン州立大学戦で先発ハーフバックが負傷したため出場、175ヤード、2タッチダウンの活躍を見せた。最終学年の1950年には強豪校のシラキューズ大学戦で125ヤードを走り勝利に貢献した。
NFL選手時代
1951年に大学を卒業、オハイオ州カントンの高校から年3,750ドル(2020年の貨幣価値で36,938ドル)のオファーを受けたが、1951年1月のNFLドラフト9巡でNFLのクリーブランド・ブラウンズに指名された[3]。年5,000ドルでブラウンズと契約した。当時のブラウンズのヘッドコーチは、ポール・ブラウンであった[1]、ディフェンシブバックとして全12試合に出場、10月には先発として出場、4インターセプトをあげた。この年チームはNFLチャンピオンシップゲームに2年連続で進出したが、ロサンゼルス・ラムズに17-24で敗れた。朝鮮戦争が起きたこともあり、1952年1月にオハイオ州軍に属した。
1952年11月にブラウンズに復帰、5,500ドルで契約、シーズン終盤の5試合に出場した。この年もブラウンズはNFLチャンピオンシップゲームに進出したが、デトロイト・ライオンズに敗れた。
1953年にブラウンズは大型トレードでシュラをボルチモア・コルツにトレードした。コルツに加入する直前、ケース・ウェスタン・リザーブ大学で修士号をとった。1953年に創設されたコルツはその年3勝9敗に終わったが、シュラは3インターセプトをあげた。
1954年にブラウンズのアシスタントコーチを務めていたウィーブ・ユーバンクがヘッドコーチに就任、シュラは自己ベストの5インターセプトをあげた。1955年にもシュラは5インターセプトをあげた。1956年、後にプロフットボール殿堂入りするジョニー・ユナイタスが控えQBとしてコルツに加入した。この年シュラは1インターセプトに終わった。1957年のトレーニングキャンプ終了後、シュラはコルツから解雇され、その後ワシントン・レッドスキンズと契約を結んだ。シュラはレッドスキンズで1年プレーし現役を引退した。
NFLで通算73試合に出場、21インターセプト[1]、4ファンブルリカバーの成績を残した。
指導者時代
現役引退後、1958年2月にバージニア大学のディフェンシブバックコーチに就任した。1959年にはケンタッキー大学のディフェンシブバックコーチを務めた。ケンタッキー大学のヘッドコーチ、ブラントン・コリエルはシュラがクリーブランド・ブラウンズでプレーしていた時代にポール・ブラウンヘッドコーチの下でアシスタントコーチを務めていた人物である。
1960年、デトロイト・ライオンズのディフェンシブバックコーチに就任した。ジョージ・ウィルソンヘッドコーチのもとでシュラがコーチを務めた1960年から1962年までの3シーズン、チームは毎年勝ち越し、1961年、1962年はNFL西地区で2位となった。1962年にライオンズのディフェンスは失点でリーグ2位、喪失ヤードでリーグ1位となった。この年のライオンズには、ロジャー・ブラウン、アレックス・カラス、ダリス・マコード、サム・ウィリアムズらフィアサム・フォーサムと呼ばれた強力なディフェンスラインの存在もあった。
1963年、ボルチモア・コルツのヘッドコーチ、ユーバンクがキャロル・ローゼンブルームオーナーに解雇され、シュラがヘッドコーチに就任した。彼は当時33歳であり、当時のNFL史上最年少ヘッドコーチであった[3]。
デビュー戦となったニューヨーク・ジャイアンツ戦は敗れたものの翌週の試合に勝利した。この年チームは8勝6敗でNFL西地区3位となった。1958年、1959年にNFLチャンピオンとなったコルツのこの年の主力はQBジョニー・ユナイタス、WRレイモンド・ベリー、TEジョン・マッキー、DEジーノ・マーチェッティであった。
ドルフィンズでスーパーボウルを制覇するまでの間、シュラ率いるチームはレギュラーシーズンは好成績を収めるものの大舞台での敗退が続く[3]。
2年目の1964年、チームは12勝2敗の成績をあげてNFL西地区で優勝したが、クリーブランド・ブラウンズとのNFLチャンピオンシップゲームでは0-27で敗れた[3]。なおこの試合ではMVPに選ばれる活躍を見せたユナイタス、HBレニー・ムーアが19タッチダウンをあげていることもあり、コルツは有利と予想されていたが0-27と完敗した。シュラはこの年最優秀コーチに選ばれた。
1965年、チームは10勝3敗1分でグリーンベイ・パッカーズと同率となったがプレーオフで敗れNFLチャンピオンシップゲーム出場を逃した。
スーパーボウルが初開催される1966年にもチームはNFL西地区2位となった。
1967年には11勝1敗2分の成績をあげたが、同率成績のロサンゼルス・ラムズの方が総得点が多く、プレーオフ出場を逃した。コルツがこの年敗れた相手はシーズン最終週に敵地ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたラムズ戦のみであった。この年も彼は最優秀コーチに選ばれた。またユナイタスがこの年も最優秀選手に選ばれた。
1968年、ユナイタスがひじを負傷、控えQBのアール・モラルが代役を務めた。チームは13勝1敗の成績をあげ、ウェスタン・カンファレンスチャンピオンシップでミネソタ・バイキングスを破り、翌週のNFLチャンピオンシップゲームではクリーブランド・ブラウンズを34-0で破った[3]。第3回スーパーボウルではニューヨーク・ジェッツと対戦、コルツ圧倒的有利と予想されていたが、ジョー・ネイマスが勝利を保証したジェッツに7-16で敗れた。コルツはたくさんの得点機会があったがそれを生かせず、ジェッツに試合の支配を許した[1]。
1969年もコルツでヘッドコーチを務めたが8勝5敗1分でプレーオフを逃した。コルツでは7シーズンで71勝23敗4分の成績をあげたがプレーオフでは2勝3敗であった。
1969年シーズン終了後、マイアミ・ドルフィンズの2人目のヘッドコーチに就任した。このとき彼の契約にはタンパリングがあったと判断され、ドルフィンズはコルツに1971年のドラフト1巡指名権を渡した[1]。
1966年に創設されたドルフィンズは、彼が就任するまでの4年間で15勝しかあげられない弱小チームであり[1]、NFLと統合される前のAFLでの最後のシーズン、3勝10敗1分の成績であった[3]。
1970年、チームは10勝4敗の成績をあげて、初のプレーオフに進出した[3]。
ドルフィンズにはラリー・リトル、ジム・ランガー、ボブ・キューヘンバーグら強力なオフェンスライン、ラリー・ゾンカ、ジム・キイク、マーキュリー・モリスによる強力なラン攻撃、ボブ・グリーシー、アール・モラルのクォーターバッキング、優れたレシーバーであるポール・ウォーフィールド、ハワード・トワイリー、ジム・マンディッチの存在、マニー・フェルナンデス、ニック・ブオニコンティらを擁したノーネームディフェンスと呼ばれる強力なディフェンスがあった。
ドルフィンズでシュラは1971年(第6回)、1972年(第7回)、1973年(第8回)、1982年(第17回)、1984年(第19回)と5回スーパーボウルにチームを出場させた。最初の4回は強力なラン攻撃と守備が売りのチームであったが、1983年のドラフトでダン・マリーノを獲得してからはパス攻撃がチームの売りとなった。1984年、マリーノは当時のNFL記録となる5,084ヤードを投げて48タッチダウンをあげた。
ドルフィンズのヘッドコーチに就任して3年目の1971年、チームは10勝3敗1分で第6回スーパーボウルに進出したが、ダラス・カウボーイズに3-24で敗れた[3]。第6回スーパーボウルでは当時のリチャード・ニクソン大統領がドルフィンズにプレーコールのアドバイスを送った[5]。
1972年、ドルフィンズはレギュラーシーズンを14勝0敗、ポストシーズンも3連勝して、スーパーボウルまでの17試合を全て勝利、スーパーボウルを無敗で制覇した唯一のチームとなった。この年、エースQBのボブ・グリーシーが5試合目で負傷し38歳のベテランQBアール・モラルが交代出場、その後レギュラーシーズン残り試合全てで先発したが全勝、プレーオフのクリーブランド・ブラウンズ戦でもモラルが先発した。グリーシーは、ピッツバーグ・スティーラーズとのAFCチャンピオンシップゲームで交代出場、第7回スーパーボウルでは先発に復帰した[6]。2007年のインタビューでこの年スーパーボウルに負けていたらスーパーボウルで0勝3敗となり、大試合に勝てないコーチと言われていただろうと語った[3](2007年シーズン、ニューイングランド・ペイトリオッツがレギュラーシーズンの16戦全勝し、第42回スーパーボウルまで勝ち上がったが、ニューヨーク・ジャイアンツに敗れてパーフェクトシーズンを逃した。)。
翌年もスーパーボウルを連覇したが、1974年のディビジョナルプレーオフ、オークランド・レイダース戦、試合時間残り35秒にケン・ステイブラーに逆転タッチダウンパスを通され26-28で敗れた。翌年は新リーグのワールド・フットボール・リーグにゾンカ、キイク、ウォーフィールドの主力3名が契約し退団したこともありチーム成績は低下したが、1980年代にも2度スーパーボウルにチームを導いた[1]。
ストライキで短縮された1982年、第17回スーパーボウルに進出したが、ワシントン・レッドスキンズに17-27で敗れた[3]。
1983年のドラフトでダン・マリーノを獲得、マリーノは2年目の1984年に数々のパス記録を樹立、チームは第19回スーパーボウルに進出したが、サンフランシスコ・フォーティナイナーズに16-38で敗れた[3]。
ジョー・ロビーオーナーが選手と高額契約を結びたがらないこともあり、シュラとオーナーの間は冷え込んだ。1983年には当時40万ドルでドルフィンズと契約していた彼にドナルド・トランプがオーナーとなったUSFLのニュージャージー・ジェネラルズから500万ドルの契約オファーがされた。
1994年、ディビジョナルプレーオフでサンディエゴ・チャージャーズに21-22で敗れた。エースRBのテリー・カービーやキース・バイアースを欠いたこの試合でピート・ストヤノビッチが48ヤードの決勝FGを狙ったが失敗している[7]。
ドルフィンズでの最後となった1995年、開幕前にエリック・グリーン、ランダル・ヒル、トレース・アームストロング、テレル・バックリーと4人の元ドラフト1巡指名選手を獲得した。プロボウルに選ばれた7人の選手、マリーノ、バイアース、アービン・フライヤー、リッチモンド・ウェブ、キース・シムズ、ジェフ・クロス、ブライアン・コックスの存在もありAFCのベストチームと見られた[7]。この年チームは9勝7敗でプレーオフに進出したがワイルドカードプレーオフで敗れた。選手たちはコーチ陣を公然と批判しており、NFLのヘッドコーチ経験者であるマイク・ディトカは「ドルフィンズには、ハートがない」、ロン・マイヤーは「シュラがチームをコントロールできていない。」と批判した。このシーズン終了後、彼はヘッドコーチを辞任した[1]。
ドルフィンズでの26シーズン中、勝率が5割を割ったのはわずか2回であった[3]。
ヘッドコーチ退任後
ヘッドコーチ退任後は、ゴルフを楽しんだり、ホテルやゴルフ場、ステーキハウスチェーンなどの経営を行った[1]。
1996年にドルフィンズのオナー・ロールに加わった。
無敗でスーパーボウルを制した30年後の2003年1月26日に行われた第37回スーパーボウルではコイントスを務めた。
2007年にドルフィン・スタジアムで行われた第41回スーパーボウルではヴィンス・ロンバルディ・トロフィーのプレゼンテーターを務めた[8]。
2008年2月3日の第42回スーパーボウルではオープニングのセレモニーに出席した。
2010年の80歳の誕生日には、ドルフィンズはホームスタジアムで彼の誕生パーティーを開催、元上院議員のボブ・グレアム(英語版)やライバルチームのヘッドコーチであったマーティ・ショッテンハイマー、ダン・リーブスが招待された[3]。
ヘッドコーチとしての成績
年 |
チーム |
レギュラーシーズン |
ポストシーズン
|
勝 |
敗 |
分 |
勝率 |
結果 |
勝 |
敗 |
勝率 |
結果
|
1963 |
BAL
|
8 |
6 |
0 |
.571 |
カンファレンス3位 |
— |
— |
— |
—
|
1964
|
12 |
2 |
0 |
.857 |
カンファレンス1位 |
0 |
1 |
.000 |
NFLチャンピオンシップ敗退
|
1965
|
10 |
3 |
1 |
.769 |
カンファレンス2位 |
0 |
1 |
.000 |
西カンファレンスゲーム敗退
|
1966
|
9 |
5 |
0 |
.643 |
カンファレンス2位 |
— |
— |
— |
—
|
1967
|
11 |
1 |
2 |
.917 |
コースタル地区2位 |
— |
— |
— |
—
|
1968
|
13 |
1 |
0 |
.929 |
コースタル地区1位 |
2 |
1 |
.667 |
第3回スーパーボウル敗退
|
1969
|
8 |
5 |
1 |
.615 |
コースタル地区2位 |
— |
— |
— |
—
|
BAL Total |
71 |
23 |
4 |
.755 |
|
2 |
3 |
.400 |
|
1970 |
MIA
|
10 |
4 |
0 |
.714 |
AFC東地区2位 |
0 |
1 |
.000 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1971
|
10 |
3 |
1 |
.769 |
AFC東地区1位 |
2 |
1 |
.667 |
第6回スーパーボウル敗退
|
1972
|
14 |
0 |
0 |
1.000 |
AFC東地区1位 |
3 |
0 |
1.000 |
第7回スーパーボウル制覇
|
1973
|
12 |
2 |
0 |
.857 |
AFC東地区1位 |
3 |
0 |
1.000 |
第8回スーパーボウル制覇
|
1974
|
11 |
3 |
0 |
.786 |
AFC東地区1位 |
0 |
1 |
.000 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1975
|
10 |
4 |
0 |
.714 |
AFC東地区2位 |
— |
— |
— |
—
|
1976
|
6 |
8 |
0 |
.429 |
AFC東地区3位 |
— |
— |
— |
—
|
1977
|
10 |
4 |
0 |
.714 |
AFC東地区2位 |
— |
— |
— |
—
|
1978
|
11 |
5 |
0 |
.688 |
AFC東地区2位 |
0 |
1 |
.000 |
AFCワイルドカードゲーム敗退
|
1979
|
10 |
6 |
0 |
.625 |
AFC東地区1位 |
0 |
1 |
.000 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1980
|
8 |
8 |
0 |
.500 |
AFC東地区3位 |
— |
— |
— |
—
|
1981
|
11 |
4 |
1 |
.719 |
AFC東地区1位 |
0 |
1 |
.000 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1982*
|
7 |
2 |
0 |
.778 |
AFC東地区1位 |
3 |
1 |
.750 |
第17回スーパーボウル敗退
|
1983
|
12 |
4 |
0 |
.750 |
AFC東地区1位 |
0 |
1 |
.000 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1984
|
14 |
2 |
0 |
.875 |
AFC東地区1位 |
2 |
1 |
.667 |
第19回スーパーボウル敗退
|
1985
|
12 |
4 |
0 |
.750 |
AFC東地区1位 |
1 |
1 |
.500 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1986
|
8 |
8 |
0 |
.500 |
AFC東地区3位 |
— |
— |
— |
—
|
1987
|
8 |
7 |
0 |
.533 |
AFC東地区3位 |
— |
— |
— |
—
|
1988
|
6 |
10 |
0 |
.375 |
AFC東地区5位 |
— |
— |
— |
—
|
1989
|
8 |
8 |
0 |
.500 |
AFC東地区2位 |
— |
— |
— |
—
|
1990
|
12 |
4 |
0 |
.750 |
AFC東地区2位 |
1 |
1 |
.500 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1991
|
8 |
8 |
0 |
.500 |
AFC東地区3位 |
— |
— |
— |
—
|
1992
|
11 |
5 |
0 |
.688 |
AFC東地区1位 |
1 |
1 |
.500 |
AFCチャンピオンシップ敗退
|
1993
|
9 |
7 |
0 |
.563 |
AFC東地区2位 |
— |
— |
— |
—
|
1994
|
10 |
6 |
0 |
.625 |
AFC東地区1位 |
1 |
1 |
.500 |
AFC地区ゲーム敗退
|
1995
|
9 |
7 |
0 |
.563 |
AFC東地区3位 |
0 |
1 |
.000 |
AFCワイルドカードゲーム敗退
|
MIA Total |
257 |
133 |
2 |
.659 |
|
17 |
14 |
.548 |
|
Total[9] |
328 |
156 |
6 |
.677 |
|
19 |
17 |
.528 |
|
*ストライキのため、日程短縮
家族
最初の妻のドロシー・バーティシュは32年間の結婚生活の後、1991年に死去した。1993年のシーズン中、バイウィークにメアリー・アン・スティーブンスと再婚した[1][3]。
息子のデイブ・シュラ、マイク・シュラ(英語版)も指導者となり、デイブはシンシナティ・ベンガルズでマイクはアラバマ大学でヘッドコーチを務めている。ドン・シュラがヘッドコーチになったのは33歳の時であるが、デイブも32歳、マイクは37歳でヘッドコーチに就任した[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Ken Belson (2020年5月4日). “Don Shula, N.F.L. Coach Who Won, and Won, and Won, Dies at 90”. ニューヨーク・タイムズ. 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Dolphins Hall of Fame coach Don Shula dies at 90”. https://www.pro-football-reference.com/coaches/ShulDo0.htm May 5, 2020閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “Dolphins Hall of Fame coach Don Shula dies at 90”. ESPN (2020年5月4日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Don Shula Record”. (May 4, 2020). https://www.espn.com/nfl/story/_/id/29132028/dolphins-hall-fame-coach-don-shula-dies-90 May 4, 2020閲覧。
- ^ Jay Hart (2013年1月29日). “President Nixon tried to help the Miami Dolphins win Super Bowl VI”. Yahoo! Sports. 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Miami's Perfect Season”. プロフットボール殿堂. 2020年6月17日閲覧。
- ^ a b “Shula, Dolphins Primed For 1995”. spokesman.com (1995年4月9日). 2020年6月5日閲覧。
- ^ “Marino, Shula to be honored at Super Bowl XLI”. ニューイングランド・ペイトリオッツ (2006年12月14日). 2020年6月17日閲覧。
- ^ “Don Shula: Coaches Main Page”. Pro Football Reference. May 4, 2020閲覧。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
ドン・シュラに関連するカテゴリがあります。
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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