ジョー・ネイマス Joe Namath
1965年
基本情報 ポジション
クォーターバック 生年月日
(1943-05-31 ) 1943年 5月31日 (81歳) 出身地
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州 ビーバーフォールズ 身長:
6' 2" =約188cm 体重:
200 lb =約90.7kg 経歴 大学
アラバマ大学 AFLドラフト
1965年 / 1巡目全体12位 初出場年
1965年 初出場チーム
ニューヨーク・ジェッツ 所属歴
受賞歴・記録
AFLオールスター選出4回:(1965年、1967年、1968年、1969年)
オールAFLファーストチーム(1967年-1969年)
オールAFLセカンドチーム(1966年)
プロボウル 選出1回:(1972年)
スーパーボウル優勝1回(第3回 )
スーパーボウルMVP (第3回)
AFLオールタイムチーム
UPI通信 AFL最優秀選手(1968年、1969年)
カムバック賞 (1974年)
ニューヨーク・ジェッツ永久欠番 #12 NFL 通算成績
TD/INT
173/220 パス成功率
50.1% パス獲得ヤード
27,663ヤード QBレイティング
65.5
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR
ジョー・ネイマス(2003年)
ジョー・ネイマス (Joseph William Namath 、1943年 5月31日 - )は、アメリカ ・ペンシルベニア州 出身の、元アメリカンフットボール 選手。端正な顔立ちと派手な振る舞いから「ブロードウェイ・ジョー」 と呼ばれたスターQB[ 1] 。
経歴
ハンガリー系の祖父は、家族や友人とともにエリス島 に移民 、ピッツバーグ 大都市圏の石炭業、鉄鋼業の工場で働いた。ネイマスは、ピッツバーグから28マイルのペンシルベニア州 ビーバー郡 ビーバーフォールズ で生まれた[ 1] 。両親はネイマスが子どもの頃に離婚し、彼は母親とともに暮らした。アメリカンフットボール、バスケットボール 、野球 を行い、高校の時にはダンクシュート を試合で決めている。高校のバスケットボールコーチであったラリー・ブルーノは、後にネイマスがプロフットボール殿堂 入りした際にプレゼンターを務めた[ 2] 。高校卒業時には、MLB のシカゴ・カブス から5万ドルの契約を示されたが、これを断り大学へ進学した[ 1] 。
大学に進学する際、ペンシルベニア州立大学 、オハイオ州立大学 、アラバマ大学 、ノートルダム大学 からのオファーを受けたが、彼が最も進学したい大学は、メリーランド大学 であった。しかし大学進学適性試験 で同大学の求めるスコアを取れなかった彼は、ベア・ブライアント ヘッドコーチの率いるアラバマ大学 へ進学した。
彼は1962年から1964年までの3シーズンで29勝4敗の成績を残し、1964年には全米チャンピオンにチームを導いた。
大学卒業を待たずにプロ入りした彼は、2007年に42年遅れで学位を取得した[ 3] 。
1965年 にニューヨーク・ジェッツ からAFL ドラフトの1巡で指名された。ジェッツは彼と当時破格の42万7000ドルで契約を結んだ[ 1] 。この年、14試合に出場し、4,007ヤードを投げて、彼はプロフットボール史上初のシーズン4,000ヤードを突破した。この記録は16試合制になった1979年 にダン・ファウツ に破られた。1965年にAFLルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。1965年、1967年、1968年、1969年にAFLオールスターに選ばれた。
1968年、オークランド・レイダース とのAFLチャンピオンシップゲームでは3TDをあげて、27-23で勝利した。
1965年から1969年までは1試合も欠場しなかったが、1970年 から1974年 までの58試合中28試合にしか出場できず、1970年から1973年 までの間、チームも4勝10敗、6勝8敗、7勝7敗、4勝10敗と低迷した。その間、1972年 9月24日のボルチモア・コルツ戦ではジョニー・ユナイタスと合計872ヤードを投げあい、496ヤード、6TDを決めて、376ヤード、3TDパスのユナイタスに44-34で投げ勝った。この年プロボウル に選ばれている。
1974年 、同じニューヨークを本拠地とするニューヨーク・ジャイアンツ とコネチカット州 ニューヘイブン のイェールボウル で行われた試合で[ 4] ブーツレッグから5ヤードの同点タッチダウン、オーバータイムにエマーソン・ブーザー にTDパスを通して26-20で勝利した(これはNFL史上初のオーバータイムの試合であった。)この年チームは6連勝でシーズンを終えて、7勝7敗でシーズンを終えた。この年、ネイマスはカムバック賞 を獲得している。
ジェッツで12年間プレーした彼は、1977年 、ロサンゼルス・ラムズ とのトレードが成立せず、解雇された。同年5月12日にラムズと契約を結んだ。ひざやハムストリング の負傷のため苦しんだ。開幕から2勝1敗で迎えたシカゴ・ベアーズ とのマンデーナイトフットボール は、強風が吹き雨の降る寒さの中行われ1点差で敗れた。
1年間の在籍の後、引退した。
通算143試合に出場し、68勝71敗4分、先発した132試合では64勝64敗4分、リリーフした試合では4勝7敗であった。27,663パス獲得ヤード、173TD、220INT。13シーズン中、ジェッツに在籍した1968年、1969年にAFL東地区 で優勝、ラムズに移籍した1977年 、NFC西地区 で優勝、している。
1985年 にプロフットボール殿堂 入りを果たした。
1999年にスポーティングニュースより、偉大な100人のアメリカンフットボール選手の96位に選ばれた。主にジェッツでプレーした選手から100人に選ばれたのはネイマスだけであった。
第43回スーパーボウル ではヴィンス・ロンバルディ・トロフィー のプレゼンターを、第48回スーパーボウル ではコイントス を務めている。
第3回スーパーボウルの予告勝利
1970年のNFLとAFLの合併を迎える以前、スーパーボウル はNFL とAFLという別リーグの対抗戦という形で始まった。それまでに開催された2度のスーパーボウルはヴィンス・ロンバルディ 率いるNFLのグリーンベイ・パッカーズ が連覇しており、新興リーグAFL代表のジェッツもNFL代表ボルチモア・コルツ(現インディアナポリス・コルツ )に対して圧倒的な格下と見られていた[ 1] 。そんな状況の中、ジェッツのクォーターバックであったネイマスは「日曜はジェッツが勝つ、俺が保証する(The Jets will win on Sunday, I guarantee it. )」と宣言。16-7と見事公約通りの勝利を収めた[ 1] 。ネイマスはその試合のMVPに選出され、以後に至っても衰えぬ人気を獲得した。
メディアへの出演
1969年にはディック・シャアプと共演し、「The Joe Namath Show」に出演した[ 5] 。
1986年には特攻野郎Aチーム のシーズン5のエピソード「Quarterback Sneak」にジム・ブラウン とともに出演している[ 6] 。
1970年、C.C.ライダー でアン=マーグレット 、ウィリアム・スミス と共演した。1978年にはテレビのシチュエーション・コメディ 、The Waverly Wonders に出演した。
1984年のお色気SL大暴走! アメリカ横断ウルトラハイホー (Chattanooga Choo Choo)にも出演している。
人物
ラクエル・ウェルチ など多くの女性と噂になったが、1984年に結婚、2人の娘をもうけた。2000年に離婚している[ 7] 。
2005年1月にスポーツ・イラストレイテッド のウェブサイトで彼はNFL史上5本の指に入る悪童だったとされた。他の4人は、ドウェイン・トーマス 、ジャック・テイタム 、ジョン・マトゥザック 、ジョン・リギンズ である[ 8] 。
脚注
関連項目
外部リンク
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
年代の分類は初先発のシーズンによる
クリーブランド・ラムズ(1936–1945)
セントルイス・ラムズ(1995–2015) 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
年代の分類は初先発のシーズンによる
業績 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 2010年代 2020年代
1977年から2011年まで中断