1849年には雑誌「ラ・ルヴュー・コミック」(Revue comique)、「ル・ジュルナル・プル・リール」(Petit journal pour rire)などの風刺新聞を発行する。この時期のナダールの仕事には、「ル・ジュルナル・プル・リール」誌のために執筆した風刺画シリーズ(たとえば1852年の『展覧会の風刺』、『魔法のランプ』)が挙げられる。特に、1851年から始めて1854年に完成した、当時の重要人物300人以上を描いた風刺肖像画シリーズ『パンテオン・ナダール』はナダールの名声を高めた。
1854年、余裕のできたナダールは、現在のパリ9区界隈サン・ラザール街(サン・ラザール通り, Rue Saint-Lazare)にある建物へ移転した。日光のよく入る部屋をアトリエにして、ナダールは新技術である写真による肖像の探求に打ち込み、ここで写真スタジオを開いた。当時、写真はダゲレオタイプに代わり湿式コロジオン法が開発され、普及するなど技術革新が進み、パリ中に写真館が登場し、肖像写真を撮ってもらうことがブームとなっており、ナダールの写真館も軌道に乗り始める。同年、ナダールはプロテスタントの裕福な家庭出身の若い女性エルネスティーヌと結婚したが、結婚後も若い芸術家や詩人などボヘミアンたちとの交友や彼らへの支援は続いた。また同時期、ナダールは弟を支援して肖像写真家としての腕を磨かせたが、弟も「ナダール」の名で写真業を営もうとしたため兄弟で争いとなった。
ナダールは、画家の道具が素材の革新で野外に持ち出せる道具になったのと同様に、写真機も外出や旅行へ手軽に持ち出せる道具となるべきだと考えた。これにナダール自身の気球への関心や気球操縦者としての活動が加わり、1858年10月23日、パリ西部近郊クラマールにおいて、ナダールは気球研究家のゴダール兄弟が操縦する気球で世界初の空中撮影を行った。真上からの視点で見たパリ市街の写真に、こうした視線から都市を見たことのない当時の人々は非常に驚いた。気球に乗って写真を撮るナダールを描いたドーミエの風刺画『写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール』(Nadar, élevant la photographie à la hauteur de l'Art) は有名である。
1860年、場所が狭くなってきたため、ナダールはスタジオをサン・ラザール街からカプシーヌ大通り (Boulevard des Capucines) 35番地に移した。ナダールはここで人工光による撮影の実験を行ったほか、シャルル・ボードレール、サラ・ベルナール、フランツ・リスト、ジョルジュ・サンドなど第二帝政期当時のフランスの主だった文化人を始め、政治家、軍人、君主などをも撮影し、肖像写真家として引く手あまたとなった。
1863年ごろから、ナダールは「巨人号」(Le Geant)と名づけた巨大気球(高さ40メートル、空気の容量6,000立方メートル、13人乗り)を建造した[2]。この計画はジュール・ヴェルヌの同年の小説『気球に乗って五週間』(Cinq semaines en ballon)にインスピレーションを与えたなどの反響があったが、10月4日のパリでの公開飛行では高度が上がらず飛行距離が伸びず失敗に終わった。10月18日、ナダール夫妻はパリを発ち、2度目の飛行実験のためハノーファーへ赴くがまたしても失敗し、妻は負傷した。
以後、資金が尽きたナダールは計画を中止し、将来の飛行技術は気球ではなく空気より重い飛行機械が先導するだろうことを確信する。ナダールは「空気より重い機械による飛行促進のための協会」(la Société d'encouragement de la navigation aérienne au moyen du plus lourd que l'air)を結成し、ナダール自身が会長を務め、ジュール・ヴェルヌが書記となった。「巨人号」は1864年9月にもブリュッセルで実験を行ったが、群衆が気球に殺到しないよう、安全な距離を置くために最新式の可動式バリアを使わねばならなかった。
ナダールはこの後キャプシーヌ大通りのスタジオを失ったが、妻による財政支援によってパリ8区フォーブール・サン=トノレ街(Rue du Faubourg-Saint-Honoré)に新しいスタジオを構えた。1886年、ナダールは記者となっていた息子のポール・トゥールナションによる、当時100歳の化学者ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール(Michel Eugene Chevreul)のインタビューに同行し数枚の写真を撮った。同年9月に新聞に掲載されたインタビューはこのとき撮ったシュヴルールの写真があしらわれたもので、世界最初のフォト・インタビューとなった。