ブラー
ブラー(Blur)は、イギリスのロックバンド。デビュー当初はキンクスやビートルズの再来と注目され[要出典]、1994年のブレイク時はブリットポップムーブメントの代表格として一世を風靡した。ブーム終息以後も様々な音楽性を横断しながら独創的な活動を行っている。後進のバンドに与えた影響も大きく、1990年代からのイギリスのロックシーンを代表する存在として人気は高い。 バンドは2003年にメンバーのグレアム・コクソンの脱退と7thアルバム『シンク・タンク』リリース後活動ペースを緩め、長らく活動停止状態が続いていたが、2009年にグレアムが復帰して以降再び活動を開始し、2023年現在各々のソロ活動の合間を縫って断続的に制作・ライブ活動を行っている。 バンドとメンバーメンバー
作詞作曲デーモンの作る旋律に、グレアムのローファイでノイジーなギターと、それとは対照的なアレックスのポップなベースライン、デイヴの乾いたドラムの交わりによって曲の骨格が作られる。グレアムがコーラスで参加したり、全員で合唱をする場面もある。 デーモンが大体の曲のラフ・スケッチを作成するが、それをもとに各楽器のパートは4人でセッションをしたり議論をして曲作りがされるため、作曲者のクレジットは4人の名前で表記される。プロデュース作業はスティーヴン・ストリートとグレアムが中心となって行っていたが、『シンク・タンク』以降はデーモンがサイド・プロジェクトであるゴリラズなどの活動を通じてプロデュース能力を上達させたことに伴い、セルフ・プロデュース曲が多くなった。歌詞はほとんどの曲をデーモンが手掛ける。 来歴バンド結成と『レジャー』1988年10月、当時ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジに在学していたデーモンが、ロンドンで「サーカス」(Circus)という名のインディーズ・バンドを結成。コルチェスターの市役所でコンピュータ・プログラマとして働いていたデイヴも参加していたが、程なくギタリストが脱退したことに伴い、デーモンのコルチェスターの公立中学校時代からの幼馴染であり、大学の同級生でもあったグレアムが加入。グレアムの加入によってバンドは飛躍的に質を上げたという。ちなみにコルチェスター時代デイヴとバンド仲間であったグレアムが、バンドのドラマーを探していたデーモンとデイヴを引き合わせている。さらに12月、デイヴが二人のメンバーを脱退させたのを機に、同じくグレアムの大学の友人であるアレックスが加入しバンドは4人編隊となり、それと同時にバンド名をサリンジャーの小説の登場人物の名前にちなんだ「シーモア」(Seymour)に変更。1989年の夏にシーモアとして最初のライブ活動を行った。そして同年11月、エキセントリックなシーモアのライブを見たフード・レコーズのA&R、アンディ・ロスから契約のオファーを受ける。ロスはメンバーにシーモアというバンド名の改名を勧め、会社側が提示した候補の中からメンバー自身が選択し、1990年3月、バンド「ブラー」(Blur)が誕生した。 結成後すぐにザ・クランプスの前座としてイギリスをツアーして新曲を試し、10月にツアーが終わるのと同時に1stシングル「シーズ・ソー・ハイ」(全英48位)をリリースし、メジャーデビューを果たす。翌1991年4月、ザ・スミス等のプロデュースでも知られるスティーヴン・ストリートを起用して何とか体裁を整えて完成させたという2ndシングル「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」が全英8位まで上昇するなどスマッシュヒットを記録すると同年8月、当時流行していたマンチェスター・サウンド、シューゲイザーなどの影響を受けた、トリッピーでサイケデリックなサウンドの1stアルバム『レジャー』をリリースし、全英7位を獲得する。イギリスの音楽雑誌セレクト誌は「ザ・スミス以来最高のグループ」と彼らを評し、他の音楽誌からも「新人類による新世代ポップ」、「ネオ・サイケの落とし子」などと評価されるなど、順調なキャリアの滑り出しを築いた。一方、この頃はまだ一部の評論家からは、流行のサウンドに乗って登場した時代のあだ花的なバンドとしか認識されていなかったが、1996年公開の映画『トレインスポッティング』のサントラに、『レジャー』に収録されている「シング」が抜擢されるなど、後年再評価も受けている。 『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』とブリットポップ1992年2月に初来日。川崎や大阪でライブを行った。3月、ジーザス&メリーチェインやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインらによる、大規模な会場を巡る「ローラーコースター・ツアー」に前座として帯同するがそれと前後して、マネージャーがバンドの資金を使い込み、ブラーの銀行口座に6万ポンドの負債があることが発覚する。破産はなんとか免れたが、救済をしてもらったTシャツ会社の意向によって、当時ニルヴァーナに端を発するグランジ旋風吹き荒れるアメリカで、4月から5月にかけて、借金返済のための1か月半ほぼ休みなしのライブ行脚を余儀なくされた。アメリカ・ツアー前後のメンバーの精神状態もアルコール中毒を患うなど最悪であり、とあるライブで酩酊状態でステージに立って最低のパフォーマンスをしてしまったバンドは、フードから解雇寸前の憂き目にもあっている(アメリカ・ツアー前後の苦い経験は後に、『13』収録の「1992」という曲にもなっている)。一方でツアー開始と同時期の3月末、それまでのトリッピーでダウナーなバンドのイメージを振り払うかのような単独シングル「ポップシーン」をリリース。全英32位とセールス的にはあまり振るわずレコード会社との関係はさらに悪化したというが、性急でパンキッシュなギターと1960年代のポップス風のサビは、新たな展開へのバンドの並々ならぬ決意の表れを示しているようであり、後の「ブリットポップ」期に続く作風の萌芽を感じさせた。 グランジブームまっただ中のアメリカで、「イギリスのポップバンド」として誰にも興味を持ってもらえない中を延々とドサ回りさせられたという苦い経験から、デーモンは反動的に「英国的なもの」にこだわるようになり、英国人としてのアイデンティティとポップイズムの確立に執念を燃やすようになった。当時イギリスでも主流になりつつあった流行のアメリカ的なグランジサウンドのアルバムを作るようレコード会社から圧力があったというが[8]、デーモンは英国的な音楽の流行がそのうちに訪れると会社を説得して1993年5月、ビートルズやキンクス、XTCなどから続くイギリスのロックミュージックの伝統に則って作成された2ndアルバム『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』のリリースにこぎつけた。レコーディング当初は、デーモンの意向に沿ってXTCのアンディ・パートリッジがプロデューサーとして起用されたが、作品の出来に納得いかなかったため作った曲はすべてお蔵入りとなり[9]、結局「ゼアズ・ノー・アザーウェイ」をヒットさせたスティーヴン・ストリートがプロデューサーに収まった。ストリートはその後5thアルバムまでプロデュースを続け、5人目のメンバーとまで呼ばれるようになる。 独特の詩情と豊かな音楽性が遺憾なく発揮された本作は、作品としては前作以上の高い評価を獲得したが、アルバムは当時の流行には乗らなかったためセールス的には全英15位に終わった。しかし、1993年ごろからデーモンの予見どおり、英国で反動的な「愛国的音楽」のムーブメントが徐々に起きつつあり、ブラーはこのアルバムや3rdアルバム『パークライフ』によってスターダムを駆け昇っていくことになる。また、デーモンはそれまで歌詞制作にそれほど興味を持っていなかったというが、この頃から一人称で歌詞を書くことを控え、架空のキャラクターを登場させるなど三人称を主語として社会をシニカルに風刺するという、演劇的な作詞法を全面に打ち出すようになった。 『パークライフ』、『ザ・グレイト・エスケープ』でのブレイクとブーム終焉翌1994年3月、先行シングル「ガールズ&ボーイズ」をリリース。リリース前よりBBCラジオ1をはじめ主要ラジオ局で大量のエアプレイを獲得し、バンドとしてシングル過去最高の全英5位を記録すると続く4月、後にブリティッシュ・ポップの金字塔と評されることになる3rdアルバム『パークライフ』をリリースした。英国ロックの伝統を踏襲したサウンドに、シニカルながらもユーモラスに英国人の日常や文化を描いたこの作品は、イギリスの時代精神を表すアルバムとして称賛され、この後の英国音楽シーンの流れを決定づけることとなる。『パークライフ』はバンド初のアルバム全英1位を獲得すると90週にもわたりチャート40位圏内に残り続け、1995年のブリット・アワードでもベスト・アルバム賞他、2016年現在(アデルと並び)同賞史上最多タイとなる4部門を受賞。このアルバムによってブラーはこの時期に英国で頻出したイギリス的なポップバンドを纏めて呼んだ総称、「ブリットポップ」バンドの代表格と呼ばれるようになる。 更に翌年の1995年9月、2ndアルバムから続くブリットポップ三部作の完結編と呼ばれる『ザ・グレイト・エスケープ』をリリース。『パークライフ』がまだチャートを賑わせている中書かれたというこのアルバムは、ブリットポップ・バンドとしての自信をより深めたかのような、迷いのないギラギラとしたサウンドを響かせている。全英1位を獲得。1993年、1994年、1995年のそれぞれ11月に来日ツアーを行っているが、1995年の初の武道館公演を記念して日本限定でライブ・アルバムがリリースされた[10]。 この時期よりマスコミから、ブラーより少し遅れてブレイクしたオアシスとの対立が煽られ、両バンドともそれに乗せられるように互いに舌戦を繰り広げるようになる。ブラーの先行シングル「カントリー・ハウス」の発売日が当初、オアシスのシングル「ロール・ウィズ・イット」の発売日(1995年8月14日)と1週間の間隔しかなかったため、ブラー側の判断で敢えてオアシスのシングルの発売日に重ねて、売り上げを競うこととなった。BBCが朝のニュースで報じるほどの騒ぎに発展したが、結局ブラーの売り上げ枚数が上回り、バンドとしてもシングル初の全英1位を獲得して騒動は決着を見た。しかし同時期のアメリカでのツアーは不盛況に終わり、また後に発売されたアルバムが、同時期に発表されたオアシスの『モーニング・グローリー』に売上面で大きく差をつけられてしまった。またメンバーのプライベートなども、マスコミによるイエロー・ジャーナリズムの恰好の餌食となった。一連の騒動にバンドは疲弊し、一時的に活動休止状態に陥る。 また、あまりにもポップになったブラーの音楽性を巡って、元来ローファイな音楽志向であったグレアムとデーモンの仲が疎遠になりつつあった。バンドが機能不全の状態に陥り解散の危機も囁かれていたが、この状況を打開するためデーモンがグレアムに長文の手紙を送り、音楽に対する考えや今後のブラーの方向性を確かめ合い、お互いの縺れた関係を修復していった。そしてこのことが、バンド復活のきっかけとなったと言われている。 『ブラー』と復活1997年2月、デーモンの「ブリットポップは死んだ」の言葉とともに、バンド名を冠した5thアルバム『ブラー』をリリースし、全英1位を獲得。これまでの捻くれたポップスの路線を排し、アイデンティティであるロンドンを歌うことを止め、アメリカのオルタナティブ・ロックに接近した荒削りでローファイなサウンドを全面に押し出した。この時期デーモンはグレアムの影響でアメリカン・インディーズに傾倒し、ペイヴメントのスティーヴン・マルクマスとも友人関係にあったという。また、ギターが背景に追いやられていた感のある前作とは打って変わり、アメリカのオルタナシーンを好むグレアムの、ノイジーで独創的なギターワークがフィーチャーされたアルバムである。このアルバムはブリットポップ期からのファンの間では賛否両論があったが、それ以上に新しいファンを獲得。この1枚によりブラーは、単にムーブメントの代表格というだけではなく、アーティスティックな面でも正当に評価されるようになったと言われている。売り上げ面での鬼門であった米国でも受け入れられ、中でも収録曲の「ソング2」は世界的ヒットを記録し、ブラーの代表作の一つになった。5月には、仙台から福岡、東京を巡る大規模な来日ツアーを行った。 『13』と円熟期1999年3月、6thアルバム『13』をリリース。長年の盟友スティーヴン・ストリートと訣別し、マドンナなどを手がけたウィリアム・オービットをプロデューサーに起用。当時デーモンが傾倒していたプログレッシブ・ロックなどからの影響が見られるノイジーな音の狂気に、バンドは更なるオルタナティブな独自性を獲得していった。全英1位を獲得。先行シングル「テンダー」ではゴスペル、ソウル音楽を取り入れて新境地を見せ、グレアムがリードボーカルを務めた「コーヒー&TV」は、牛乳パックがグレアムを捜し求めて奔走するというビデオ・クリップの愛らしさも話題となった。この頃よりグレアムが、シングルも含めCDジャケットのアートワークを担当するようになる。 7月、初の苗場開催となったフジロック・フェスティバルにて2日目の大トリを務め、ブリットポップ全盛期の楽曲を多く含むベスト的なセットリストを披露。また同年8月、デビュー10周年記念の完全限定生産のシングルコレクション『ザ・10イヤーズ・リミテッド・エディション・アニバーサリー・ボックスセット』を発売すると、12月にはロンドンのウェンブリー・アリーナで、過去の全シングル曲をリリース順に演奏する「シングル・ナイト」ギグを行った。 2000年10月には、ファンの投票によって収録曲が決められた初のベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブ』をリリース。現代美術家のジュリアン・オピーによる、メンバーの似顔絵を配したミニマルでポップなジャケットも話題となった。ベスト盤の発表に伴いリリースされたシングル曲「ミュージック・イズ・マイ・レーダー」は、アフリカ音楽に影響されたビートとローファイなギターサウンドの融合が印象的なダンス・ソングで、今後のブラーの新しい方向性が垣間見える曲となったが、上述の通りデビュー10周年を機にブラーの活動に一区切りをつけるような動きが目立つようになる。 メンバーの個人活動も盛んになり、7月のメルトダウン・フェスティバル出演やベスト盤のプロモーション活動を区切りとして、一時活動休止状態に入る。デーモンは、1998年に結成した覆面ヒップホップユニット・ゴリラズを本格始動させたり、アフリカのマリ共和国に飛んで現地の音楽に触れてアルバムを作成する。グレアムもソロ・アルバムを作り、アレックスやデイヴも他バンドに参加したり曲を提供するようになった。 『シンク・タンク』とグレアムの離脱2001年11月、レコード会社との契約通り4人は新アルバムのレコーディングに入るものの、デーモンがノーマン・クック(ファットボーイ・スリム)をプロデューサーに起用したことに対しグレアムは不快感を示す。徐々にグレアムとデーモンの音楽性の相違が顕在化して作業は行き詰まり、グレアムがバンドとの距離を置き始めるようになる。当時グレアムはアルコール依存症も患い、精神的に不安定な状態にあったというが、一向にレコーディング・スタジオに現れないグレアムに痺れを切らしたバンドは2002年5月、マネージャーを通じてグレアムにスタジオに来ないよう通達。バンドは9月、グレアム抜きで北アフリカのモロッコ・マラケシュに飛びレコーディングを続行した。亀裂は決定的となり、10月にグレアムが正式に脱退を表明。一方2003年5月にバンドは、ノーマン・クックやベン・ヒリアーらのプロデュースによる、7thアルバム『シンク・タンク』をリリースした。モロッコでの経験から、サウンドはアフリカ音楽に加えアラブ音楽への傾倒も見せ、また同時にデーモンの反イラク戦争の活動を通じて、歌詞も政治的色彩を色濃くしていった。全英1位を獲得。ジャケットはグラフィティ・アーティストのバンクシーが手がけている。同年5月に来日。また8月のサマーソニックにはヘッドライナーとして出演した。元ザ・ヴァーヴのサイモン・トングがグレアムの代わりのサポートライブ・ギタリストとしてツアーに参加した。 12月、天文学に興味のあったアレックスとデイヴの提案で、イギリスの火星探査機、マーズ・エクスプレスに搭載された着陸機であるビーグル2から、ブラーの楽曲(「ビーグル2」)を火星で流すというプロジェクトに挑んだが、ビーグル2からの返答はなかった[11]。 リユニオンその後2004年に新アルバムのレコーディングのために3人でスタジオ入りをするといったこともあったが、グレアムを欠いたブラーは求心力を失い自然消滅的に活動を休止。その間、デーモンはサイド・プロジェクトとして始めたゴリラズでの世界的なブレイクをはじめ、いくつもの活動で成功を収め、グレアムもアルバムを3枚発表し、ソロ・アーティストとしてのキャリアを重ねた。アレックスもサイド・プロジェクトを立ち上げたり他バンドに参加するなど音楽活動を続けながら、田舎に移住してチーズ製造に血道を上げ、自身のチーズ・ブランドがイギリス王室御用達として認められるほどのキャリアを築く。デイヴも音楽活動を続けながら、アニメーションの制作をしたり、労働党の候補として選挙に立候補した他、弁護士資格の取得を目指して勉強し、弁護士事務所で働いていた。その間もアレックスやデイヴがグレアムとコンタクトを取っており、グレアムが復帰し再始動するという噂が2006年の末ごろから幾度か浮上するようになる。2007年10月には2003年のアレックスの結婚式以来4年半ぶりに4人が一堂に会し話し合いが持たれたが、その場ではバンド再始動の決定には至らなかった。 2008年9月、デーモンがアルゼンチンのメディアに対し、「ブラーは終わった」と発言する。その発言を受けてグレアムは、固定ハンドルで普段から書き込みを行っていたブラーの公式サイトの掲示板にて、ブラー脱退から現在に至るまでの経緯を綴り、デーモンに連絡を取る旨を書き込んだ。翌10月、グレアムはデーモンの「アフリカ・エクスプレス」のライブに足を運び、デーモンと脱退以来初めて、腹を割って話し合った。この話し合いで二人は和解したと言われているが[12]、11月にはデーモンが手掛けたオペラ『西遊記』の公演初日に、グレアムがアレックスとともに現れたことが報じられるなど、再始動の機運が高まっていった。 2008年12月9日、オフィシャル・ウェブサイトにおいて、グレアムがデーモンと和解をしてブラーに復帰することが公式にアナウンスされ、2009年7月3日にロンドンのハイド・パークで復活ライブが行われることが発表された。この再始動に対する反響は大きく、5万人分の復活公演チケットは発売開始2分で即完売し、7月2日にも追加公演が行われることが決定した。またコールドプレイ、ステレオフォニックス、カイザー・チーフスなど後進のバンドからは次々と歓迎のコメントや前座出演を請う逆オファーが寄せられた。 2009年2月、NMEアワーズにてデーモンとグレアムの二人だけの形式で再始動宣言後初めての演奏を披露すると、6月からはバンドとして初めてのライブを行った故郷・コルチェスターのイースト・アングリアン鉄道博物館での関係者のみを招いたライブを皮切りに、イギリス中のライブハウスやアリーナをウォームアップ・ギグとして回った。また、同月末にはグラストンベリー・フェスティバルに10年ぶりに出演。最終日の大トリとして出演したこのライブは、「グラストンベリー・フェス39年の歴史の中で、最高のヘッドライナー・ライヴの一つ」と評された。そして7月2日、3日、ハイド・パークでリユニオン・ライブが行われた。ライブの音源は公演直後にライブ・アルバム『オール・ザ・ピープル』として限定版CDおよびダウンロード配信にてリリースされている。 ハイド・パークでのライブ前の6月には、メンバー自身が「ブラー初心者」のために選曲したという新ベストアルバム『ミッドライフ:ビギナーズ・ガイド・トゥ・ブラー』がリリースされた。また、2010年1月にはバンド結成から活動休止、再始動までを追ったブラーのドキュメンタリー映画『ノー・ディスタンス・レフト・トゥ・ラン』が公開され[13]、同映画は第53回グラミー賞の「最優秀長編ミュージック・ビデオ賞」にノミネートされた。また同年4月には、再始動後初めてのオリジナル曲となるシングル、「フールズ・デイ」を発表。4人揃っての楽曲としては7年ぶりのリリースとなった[14]。 ロンドンオリンピックに関する活動とワールドツアー2012年2月に開催されたブリット・アワードで功労賞を受賞し、バンドとしてはおよそ2年半ぶりにパフォーマンスをする。また、ブリット・アワーズ前に開かれたチャリティー・コンサートにてブラーの新曲と目された「アンダー・ザ・ウェストウェイ」を、デーモンとグレアムとの二人だけの形で披露した。 その後、ロンドンオリンピック閉会記念ライブに出演することが発表され、7月には記念ライブ用の新曲として「アンダー・ザ・ウェストウェイ」と「ザ・ピューリタン」の2曲を正式に発表。ロンドン市内のビルの屋上からインターネット中継した。また同月、アルバムメジャーデビュー21周年を記念して、アルバム『レジャー』から『ブラー』までのリマスター版を含む、過去のブラーに関するあらゆる音源や映像を集めたCD、DVD合計21枚のボックスセット『ブラー21』をリリースした。 そして8月12日、ロンドン中心部のハイド・パークでロンドンオリンピックの閉会式と同時に開かれたロンドン五輪閉会記念コンサート「ベスト・オブ・ブリティッシュ」にヘッドライナーとして出演[15]。2009年の再結成ライブ以来3年ぶりとなったハイド・パークでのライブには、8万人もの観衆が集まった。翌々日には音源がライブ・アルバム『パークライヴ』としてダウンロード配信されている。 2013年3月からはワールドツアーを敢行し、それまであまりライブを行ってこなかった中南米、東南アジアなども含む世界各国で公演を行った[16]。2014年1月にはツアーの最終公演として11年ぶり、グレアムを含めたフルメンバーとしては15年ぶりの来日を果たし、1997年以来17年ぶり3回目となる日本武道館でのライブを行った[17]。 12年ぶりのアルバム『ザ・マジック・ウィップ』2013年5月の香港での公演中、急遽、次に予定されていた東京と台湾での公演がキャンセルとなったため(日本の代替公演は前述の2014年1月の公演、台湾公演は中止)、5日ほど香港に滞在することとなった。イギリスからエンジニアを呼び出しスタジオを予約して、5日間で多くの音源を録音したが、その音源はツアー再開後お蔵入りとなっていた。録音から1年4か月後の2014年9月、グレアムがデーモンに、香港での音源をアルバムとして完成させることを提案する。デーモンは自身のソロ・ツアーで多忙だったため、グレアムにアルバムの制作を進めるよう指示した。そこでグレアムはかつての盟友、スティーヴン・ストリートに連絡を取り、2人でプロデュースを開始。11月、グレアムが作業中の音源をデーモンに聞かせるとその出来栄えにデーモンも感化され、バンド・メンバー4人が集まり本格的に作業が進められた。12月にはデーモンがソロ・ツアーの帰途、歌詞を書くにあたって現地の雰囲気を再び感じ取るため香港に立ち寄ったという。極秘裏にアルバム制作は進められ、2015年2月、先行シングル「ゴー・アウト」と共に、『シンク・タンク』以来12年ぶり、フルメンバーでは『13』以来16年ぶりとなる8枚目のスタジオ・アルバム『ザ・マジック・ウィップ』の発売が急遽発表された。同作は2015年4月にリリースされ、『パークライフ』から6作連続となる全英1位を獲得した。サウンドは近年のデーモンとグレアムのソロ活動での音楽嗜好を明確に感じさせ、また、ジャケットに繁体字のネオンサインが配され、ミュージック・ビデオにも広東語が度々登場することに象徴的なように、レコーディングが行われた香港の街がインスピレーションの素となっているという。アルバム・ジャケット、ビデオともにアートディレクターはイギリス生まれの中国系アーティスト、トニー・ハンが担当した[18]。 6月から11月にかけてワールドツアーを行う。12月には最新アルバムの制作過程を追ったドキュメンタリー映画『ニュー・ワールド・タワーズ』がイギリスで公開され、その後世界各国でも順次公開された。同映画は2016年のNMEアワーズにおいて、ベスト・ミュージック・フィルム賞を受賞した。 8年ぶりのアルバム『ザ・バラード・オブ・ダーレン』2019年3月に長年デーモンが主催している「アフリカ・エクスプレス」のライブにサプライズ・ゲストとして4人が登場し、2015年以来となる(3曲のみの)ライブを行った他は活動休止状態が続いていたが、2022年11月、2023年7月8日にロンドンのウェンブリー・スタジアムで再始動ライブが行われることが発表された。9万人分のチケットは数分で完売したため、翌9日の追加公演も決定した。この活動期間において、当初新曲制作の予定はなかったが、デーモンがメンバーに新曲をプレゼンしたことをきっかけに、2023年初頭より秘密裏にアルバムの制作も進められ、同年5月、8年ぶりとなる9枚目のスタジオ・アルバム『ザ・バラード・オブ・ダーレン』のリリースが発表された。タイトルの通りバラード風の楽曲が中心となった同作は、アークティック・モンキーズやゴリラズなどのプロデュースで知られるジェームス・フォードがプロデューサーを務めた。アルバムは7月に発売され、7作連続となる全英1位を獲得。アルバム・ジャケットには写真家、マーティン・パーの2004年の作品が使用されている。 7月に行われた2晩のウェンブリー・スタジアムでの大規模なライブは成功裏に終わった。また6月の「プリマヴェーラ・サウンド」出演を皮切りにフェス出演を中心としたワールドツアー(ヨーロッパ、日本、中南米)を行い、8月には「サマーソニック」のヘッドライナーとして9年ぶりの来日公演を行った(サマソニへの出演は20年ぶりで、ギターのグレアムは初出演)。 2023年11月の中南米公演終了後、デーモンはインタビューで再びの活動休止を宣言したが、その後2024年4月に「コーチェラ・フェスティバル」へブラーとして出演することが発表された。 2024年4月のコーチェラ・フェスティバル出演後は再び活動休止状態になっている。 ディスコグラフィ→詳細は「ブラーの作品」を参照
オリジナル・アルバム
コンピレーション・アルバム、ライブ・アルバム
日本編集ミニ・アルバム、シングル
限定シングル、ファンクラブ・シングル
代表曲
映像作品
主な受賞歴
脚注
外部リンク
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