アラブ音楽(アラブおんがく)とは、アラビア語を話す人々の音楽である。地域的には西南アジア、北アフリカを中心とした広がりを持ち、国としては、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、シリア、イラク、レバノン、エジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、イエメンなどになる。周辺のイラン、トルコの音楽などとも関わりを持つ。
単旋律的で、メロディーは中国音楽のような5音音階的なものではなく、7音音階的である。中立音程などと言われる音程の使用が特徴的。メロディーには太鼓などによるリズム伴奏が付く事も特徴の一つ。
近年では、アルジェリアのオラン地方に発するライがポピュラー音楽としての発展をとげ、中東のみならず欧州をはじめ世界中で親しまれている。
歴史
ジャーヒリーヤ
- 基本的に声楽。歌を意味するはアラビア語は「ギナーア」。口頭伝承の形で伝えられていった。
- 狭義の「ギナーア」 - 芸術的なもの
- ナスブ - 世俗的なうた。
- シイル - 詩。
- フダー(フダーア) - 隊商(キャラバン)のらくだ追いのうた。
- ナウフ - いわゆる哭歌(なきうた)。葬式の時のうた。
- ムガンニー(男性)、ムガンニーヤ(女性)は「歌をうたう人」の意。
- シャーイルは詩人(巫)だが、詩(シイル)にはメロディがつくのが普通だった。広義には音楽家といえる。
- カイナ(複数形キヤーナ)と呼ばれる「芸者」・「歌姫」がいた。
ウマイヤ朝期
- ダマスカスの宮廷などで活躍した音楽家。
- イブン・スライジュ
- マアバド(? - 743年)
- ガリーズ
- ワリード2世(カリフ)
- マーリク・アッターイー
- イブン・アーイシャ
- ユーヌス・カーティブ
- イブン・カルビー(? - 763年) - キターブ・アルナガム(旋律の書)、キターブ・アルキヤーン(歌姫の書)の著者。
- イブン・ミスジャハ - アラブ古典音楽の整備に功。
- ハリール(? - 791年) - 音楽理論に関する著作があったと言われる(現存せず)
アッバース朝期
- バグダードの宮廷で活躍した音楽家。
- ハカム・ワーディー
- イブン・ジャーミー
- イブラーヒーム・マウシリー
- イスハーク・マウシリー - イブラーヒーム・マウシリーの子。優れた音楽家として名声を博した。古典アラブ音楽を守る保守派として、ペルシャ音楽を取り入れようとしたイブラーヒーム・イブン・マフディーと対立。
- ザルザル
- イブラーヒーム・イブン・マフディー - カリフ、アミーンのおじ。ペルシャ音楽の取り入れをはかった。古典アラブ音楽を守る保守派としてのイスハーク・マウシリーと対立。
- ジルヤーブ(ズィルヤーブ) - イスハーク・マウシリーの弟子。
- 当時の哲学者は博く様々な事柄を考察の対象としたが、音楽理論に関する著作を残した哲学者も多い。
セルジューク朝期
モンゴルの征服
オスマン帝国期
- ハサン・エフェンディ Hatip Zakiri Hasan Efendi(1545年 - 1623年)
- ガーズィー・ギライ Gazi Giray(16世紀末) - クリミア・ハン国のハン。作品にマーフル・ペスレヴ(Mahur pesrev)など。
- ソラックザーデ Solakzade(17世紀前半) - 作品にニーシャーブール・ペスレヴ(Nişâbur pesrev)など。
- ハーフィズ・ポスト Hafiz Post(? - 1693/1694年)
- ブフーリーザーデ・ムスタファー・ウトリー Buhurizâde Mustafa Itrî(1640年 - 1711/1712年) - ハーフィズ・ポストの弟子。
- アフメト・チェレビー Ahmed Çelebi(17世紀後半) - 作品にセギャーフ・セマーイー(Segah semai)など。
- デルヴィーシュ・ムスタファ Derviş Mustafa(17世紀後半) - 作品にニハーヴェンド・ペスレヴ(Nihavend pesrev)など。
- カンテミルオウル Kantemiroğlu(1673年 - 1723年) - モルダヴィア(ルーマニア)公ディミトリイ・カンテミル Dimitrie Cantemir のトルコ名。公子としてイスタンブール滞在中に数々の曲を作曲。独自の楽譜を考案、自作曲を書き残した。のちにロシアに亡命。ラテン語で優れたオスマン帝国史書を残したことでも有名。
- タンブーリー・ムスタファ・チャヴシュ Tanburî Mustafa Cavuş(18世紀前半)
- シェリフ・チェレビー Şerif Çelebi(18世紀前半) - 作品にラースト・ペスレヴ(Rast pesrev)など。
- セリム3世 Sultan III. Selim(1761年 - 1808年) - オスマン帝国の第29代スルタン。オスマン古典音楽を数多く作曲し「セリム3世楽派」の祖とみなされた。
- ハマーミーザーデ・イスマイル・デデ Hamamizade İsmail Dede(1777/1778年 - 1845/1846年) - オスマン古典音楽最高の作曲家で、「デデ・エフェンディ Dede Efendi」として知られる。オスマン帝国第31代マフムト2世の宮廷に仕えた。
- ハンパルスム・リモンジュヤン Hamparsum Limonicuyan(1768年 - 1839年) - アルメニア人。ハンパルスム譜を考案。
- デッラールザーデ・イスマイル・エフェンディ Dellalzade Ismail Efendi(1797年 - 1869年) - イスマイル・デデの最も著名な弟子で、師につぐ大作曲家。美声で知られ、宮廷声楽家になった。
- タンブーリー・オスマン・ベイ Tanburî Büyük Osman Bey(1816年 - 1885年)
- ゼカーイ・デデ Zekai Dede(1824年 - 1897年)
- ハジュ・アリフ・ベイ Hacı Arif Bey(1831年 - 1884年)
- シェウキ・ベイ Şevki Bey(1860年 - 1890年)
- レミ・アトル Lemi Atlı(1869年 - 1945年)
- タンブーリー・ジェミル・ベイ Tanburi Cemil Bey(1871年 - 1925年(1916年とも))
近現代
音楽理論
楽器
研究者
西洋社会で最初にアラブ音楽研究を本格的にした人物に、フランシスコ・サルバドール・ダニエル(Francisco Salvador-Daniel、1831-1871)がいる。ユダヤ系スペイン人移民の子としてフランスに生まれ、パリ音楽院で学んだ彼は、1830年代にエジプト、パレスチナ、トルコを巡って東方音楽を研究したフェリシャン・ダヴィに憧れて、1853年にフランスの植民地アルジェリアに渡り、バイオリン教師の傍ら、アラビア語を習得してアラブ音楽を研究、1863年には『アラビア音楽(La Musique Arab)』を出版し、パリの楽壇を騒がせた。1865年に帰国し、1867年に自作のアラブ・オペラ『ファンタジー・アラブ』を初演した。その後社会主義思想に傾倒し、音楽評論などを手掛け、普仏戦争により第二帝政が終わると、コミューンの一員として政治運動に参加し、1871年にパリ音楽院の院長に就任したが、就任11日目に正規軍に射殺された。[1][2]
関連項目
脚注
- ^ 結論『西洋音楽史概説』飯田忠純、音楽世界社、1937
- ^ パリ国立音楽院とピアノ科における教育(1841~1889) : 制度、レパートリー、美学上田 泰、東京芸術大学学位論文、2016-03-25
参考資料
- 平凡社音楽大事典 - 西アジア項
- New Grove Music Dictionary「Turkey項第4節Art music内3のComposers」
- CD「TURKEY SPLENDOURS OF TOPKAPI」(OPUS 111,1999年,OPS 30-266)
外部リンク