ミクロネシア
ミクロネシア(Micronesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つ。カロリン諸島など4つの主要な群島から構成される地域。「マイクロネシア」と呼ばれる場合もある。 概要ミクロネシアはギリシャ語のミクロス(μικρός 小さい)ネソス(νῆσος 島)から、「小さな島々」という意味である[1]。概ね南緯3度~北緯20度、東経130度~180度の範囲にある諸島の総称である[注釈 1]。パラオ、ミクロネシア連邦[2]、マーシャル諸島、ナウルの各国およびキリバスのギルバート諸島地域と、アメリカ合衆国の領土であるマリアナ諸島、ウェーク島も含まれる。なお、マリアナ諸島のうち最南端のグアム島は米国の準州であり、その他の島は米国の自治連邦区(コモンウェルス)である北マリアナ諸島に属する。 ミクロネシアは、以下の4つの主要な群島から構成される。 日本の小笠原諸島は一般的には含まれないが、国際自然保護連合のUdvardy (1975)では、生物地理区の区分上においてオセアニア区ミクロネシア地区島嶼混合系に属している[3]。 自然環境地質・地理ミクロネシアの島々は、その地質構造によって大きく二つの種類に分類される。火山島と隆起サンゴ礁である。火山島は西部ミクロネシアのマリアナ諸島(テニアン島を除く)、ヤップ島、パラオ諸島、中央ミクロネシアのチューク諸島、ポンペイ島、コスラエ島の6群島で、他の小さな島々はすべて隆起サンゴ礁の島である。火山島の面積は隆起サンゴ礁の島よりもだいたい大きく、高度も数百mあるものが多い。最大の島はマリアナ諸島にあるグアム島である。面積約550km2で高さは約400m。バベルダオブ島(パラオ本島)は面積約400km2で高さは約200m、ポンペイ島は約340km2で高度734m、コスラエ島は約116km2で高度約650mである[4]。 気候主に熱帯雨林気候(Af)で年平均気温は26〜28℃、温暖で降水量も多い。西部のマリアナ諸島では弱い乾季があり熱帯モンスーン気候(Am)に分類される地点もある。 人口・文化など人口(2000年の推計値)は514,400人[5]であり、先住民の大半はミクロネシア系であるが、カピンガマランギ環礁など、ポリネシア系の住民が暮らす島もごくわずかに存在し、それらは域外ポリネシア(Polynesian outlier)と呼称される。ちなみにカロリン諸島には、ポリネシアのものに極めて近い航法技術(ウェイファインディング)が残存しており、先史時代のミクロネシアとポリネシアの間で文化的交流があり、かつ両者が同じオーストロネシア系民族によって形成された文化であることを示している。また、日系人の人口も多い。 現代では、太平洋芸術祭などによってポリネシアやメラネシアの先住民との文化的交流が為されている他、ミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島の航法師マウ・ピアイルックがハワイの先住民運動(ハワイアン・ルネッサンス)に協力し、その功績から「パパ・マウ」と呼ばれている。 太平洋戦争(大東亜戦争)は、ミクロネシアの人々にとって初めての近代的戦争経験であり、この地の社会・文化を覆す事件であった。そのためミクロネシア社会は、アジア・太平洋的伝統社会システムからキリスト教的価値観を基礎とする欧米的生活様式へ転換した[6]。太平洋戦争の痕跡は、キリバスのタラワ環礁、パラオのペリリュー島、マリアナ諸島のサイパン島などミクロネシアの各所に今なお残されている。また、日本軍兵やアメリカ兵の墓標(慰霊碑)が、戦後になって遺族や政府などによって建立されている[7]。また、1946年から1958年にかけて、アメリカが110回あまりの原水爆実験をマーシャル諸島で実施した。その影響でロンゲラップ環礁の人たちをはじめ第五福竜丸など多くの人々が被爆した[8]。 政治政治行政単位は以下の通りである。 以下の3つは主権国家であるが、アメリカによって自由連合盟約援助金(コンパクト・グラント)を供与されている[11]。 歴史先史時代のミクロネシアこの地域の考古学的研究はまだ発展途上であり、はっきりしたことはわかっていないが、今から4200年前頃までは無人島であった。ミクロネシア西部のマリアナ諸島には、今から3500年前頃から人が移住してきており、土器や石器、貝製装飾貝類をつくり、サンゴ島内での漁労などを行い暮らしはじめた[17]。文化的に見て、最初にフィリピン周辺から直接パラオ、ヤップなどに植民したオーストロネシア系グループと、後に西ポリネシア方面からカロリン諸島に植民したオーストロネシア系グループがいたのではないかと推測されている。 この地域の先住民の文化を最も強く特色づけているのは、シングル・アウトリガー・タイプの航海カヌーであり、彼らはこれを用いて広範な交流を行っていた。特にヤップ島はこれらの島々の中でも最も強力な権力を持ち、カロリン諸島の島々から定期的にヤップ島まで貢ぎ物を届ける航海(サウェイ交易)が行われていた。ヤップ島の酋長の権力は現在も強く、カロリン諸島の島々に対して一定の権威を保持している。 また、巨石文明が築かれた島もあり、マリアナ諸島のラッテ・ストーン、ポンペイ島のナンマトル遺跡、コスラエ島のレラ遺跡などが現存している。 年表
人種・民族ミクロネシアの民族はモンゴロイドにオーストラロイドが混じった人種に属す。ポリネシア人、メラネシア人との混血が複雑に進んでいて、それぞれの人々の身体的特徴の差異が大きい[35]。短身痩躯で褐色の肌に黒髪を有する。 ミクロネシアの民族はオーストロネシア人の一派だがその起源は2系統ある。1つはスラウェシ島から直接東に進路をとったグループで、パラオ人やチャモロ人が含まれる。2つ目はスラウェシ島からニューギニア島沿岸部を経てメラネシアより北上したグループで、ミクロネシア諸語を話すキリバス人、カロリン人などが含まれる。このほかに、ツバルから西進したポリネシア人の住む域外ポリネシアに属する島もある。 Y染色体ハプログループはオセアニアのオーストロネシア人に広く見られるハプログループO1a (Y染色体)、ハプログループO2 (Y染色体)やハプログループK (Y染色体)が優勢だが、日本人に高頻度のハプログループO1b2 (Y染色体)およびハプログループD1a2a (Y染色体)が5.9%ずつみられる[36]。弥生時代以降(おそらく日本による統治が行われていた時代)に日本からミクロネシアへもたらされたことが考えられる。 言語地域による差異はあるが、オーストロネシア語族に属しており、南東部においてはナウル語やコスラエ語などといったミクロネシア諸語が広く話される。ミクロネシア諸語には全部で50種類前後の特有言語があり、それぞれが近似性を保ちながらも島嶼間の交流の困難さから独自に発展していった[37]。ミクロネシアで流通している言語のうち、ミクロネシア諸語に含まれないものとしては、スンダ・スラウェシ語群に属するマリアナ諸島のチャモロ語、パラオ共和国のパラオ語がある。これらはスラウェシ島から直接東進したグループであり、ミクロネシア諸語とは経歴を異にする。このほかに、アドミラルティ諸島諸語と近縁であるヤップ島のヤップ語、ポリネシア諸語に属するヌクオロ環礁のヌクオロ語、カピンガマランギ環礁のカピンガマランギ語がある[38]。 共通した特徴としては自然現象に関する語彙や表現の豊かさ、食物や魚類、航海技術に関する用語が多く見られることが挙げられる。例えばウォレアイ語では、ココナッツを表現するのに、実の熟し具合によってgurub,sho,paawolが存在するなど、名詞の豊富さがうかがえる[39]。 その他、16世紀以降の植民地化の影響によってスペイン語、ドイツ語、日本語、英語などから多くの借用語彙が誕生している[40]。日本語からの借用語はナッパ、ハラマキ、ジドーシャなど、日常的に用いられる名詞も数多く含む[40][41]。近年は都市部で英語の影響が顕著となっており、伝統を保ってきた土地の固有言語は廃れつつある[40]。 社会宗教元来ミクロネシア人は独自の精霊信仰を持っていたが、植民地化に伴いキリスト教が普及した[35]。16世紀に移入したキリスト教は第一次世界大戦後の日本統治を経ても廃れることは無く、今日のミクロネシアの人々の生活に根付いている[39]。一方で、万物に霊が宿るとした伝統的な信仰体系は一部の島を除き廃れていってしまっている[35]。 生活古来よりミクロネシア人の社会体系はヤップ島やギルバート諸島などの一部を除けば母系制が一般的であり、女系系譜を共有する親族集団によって土地の所有・移譲が行われてきた[42]。ただしこの制度もドイツや日本の統治政策の影響によって廃れている島もあるため、現在では一意の特徴を見出すことはできない[35]。政治的にも首長制を選択して複雑な地位体系を構成し、階層社会を築き上げたポンペイ島やコスラエ島などから、親族体系以外の地位を持たないチューク諸島やカロリン諸島などまで、様々な文化が混在している。 西欧諸国との接触により金属の存在が知られるようになると、ミクロネシア人の生活環境は大幅に変容したが、それまでは石や貝などを原料とした斧や釣り針、ココヤシ繊維の網などを用いた漁撈生活を主とし、パラオ諸島など一部の島では土器も利用されていた[35]。栽培や家畜の飼育も小規模ながら行われており、ブタ、イヌ、ニワトリの飼育、タロイモ、パンノキ、ココヤシ、ヤムイモの栽培などがなされている[43]。 文化的にはポリネシアやメラネシアとの共通項が見られ、キンマの葉に包んだビンロウの実と石灰を混ぜたものを噛む習慣(ベテル・チューイング)やメラネシアのカヴァに相当するシャカオなどがある。こうした文化的な共通性はミクロネシア東部に行くほど色濃くなっている[35]。 また、ヤップ島では現代においても儀礼的交換を行う場合には石貨(フェ)を使用しており、貨幣の中では世界最大を誇る[44]。 芸術美術ミクロネシア人の美術は木彫工芸にその特徴を見ることができ、パラオ諸島の象嵌細工(ディルカイ)、モートロック諸島の仮面(タプアヌ)、チューク諸島やポンペイ島の儀礼用の櫂などが知られる[35][45]。また、近年パラオでは日本人彫刻家の土方久功が伝えたストーリーボード(パラオの歴史や伝説を浮彫りにした木彫り細工)が観光用民芸品として広く作られるようになっている[46]。 音楽ミクロネシアの音楽は島嶼間の相互交流により類似性を示しつつも各島でそれぞれ伝統的な発展を見せた[47]。主として身体打奏やほら貝による吹奏が見られるが、ポリネシア人が用いるような打楽器はほとんど見られない。また、伝統的な踊りについては、数人から数十人によって短い旋律の歌詞を繰返し歌いながら同一の動作を取るように踊り、跳躍は生じないのが一般的である。動作は性別によって緩やかな規定があり、連動しながらもそれぞれ別個の動きを取る。 近年では若者を中心として汎ミクロネシアポップスと呼ばれる歌中心の音楽が流行しており、1960年頃より徐々に発展した。これは、土着化した賛美歌や外来音楽(J-POP、ハワイアン、ロック (音楽)、レゲエ、ヒップホップなど)と現地音楽を融合させたもので、ラジオやライブなどを中心に広がりを見せている[48][49]。 脚注注釈出典
参考文献書籍
外部リンク
関連項目 |