ペトロ岐部と187殉教者
ペトロ岐部と187殉教者(ペトロきべと187じゅんきょうしゃ)は、1603年から1639年にかけて日本各地で殉教した日本人のカトリック司祭・修道者・信徒で、2008年に長崎市で行われた列福式でカトリック教会の福者に列せられた188人のキリシタンの総称[1]。司祭になるべくローマへ徒歩で行ったペトロ岐部や、天正遣欧少年使節の一人である中浦ジュリアンらを含む[2]。 概要「ペトロ岐部と187殉教者」は、徳川幕府のキリスト教禁教政策のもとで1603年から1639年にかけて各地で殉教した日本人で、5人の司祭・修道者のほか武士、町人などさまざまな身分の183人の老若男女の信徒(キリシタン)が含まれている[2]。中には洗礼名だけで日本名が伝わっていない信徒もいる。2007年6月1日に当時のローマ教皇ベネディクト16世が列福を承認する教令に署名し[3]、2008年(平成20年)11月24日に長崎県長崎市の長崎県営野球場で列福式が執り行われた。列福式には、ローマ教皇代理として元教皇庁列聖省長官のジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が来日して司式した[2]。日本のカトリック教会では、7月1日を「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日としている[4]。 福者となった殉教者※名前の後の括弧内は没時の年齢。 八代の殉教者(11名)キリシタン大名の小西行長が南肥後の領主であったが、関ヶ原の戦いで敗れたことにより、その領地は加藤清正のものとなった。加藤清正は日蓮宗を厚く信仰しており、領内のキリシタンにも日蓮宗への改宗を強制し、従わない者に対しては容赦ない弾圧を加えた。
萩・山口の殉教者(2名)山口のキリシタンを一掃しようとした毛利輝元によって、熊谷元直と全盲の琵琶法師であったダミアンは捕らえられた。自らの信仰を明らかにしていた元直は、萩城建設の際の窃盗事件を理由に死罪とされ、地域のキリシタンの精神的支柱であったダミアンは、役人により夜中に刑場に連れ出され、斬首された。
薩摩の殉教者(1名)
生月の殉教者(3名)平戸の領主であった松浦隆信が南蛮貿易を開始してポルトガル船が入港するようになったことから、1550年代からキリスト教が平戸島や生月島など一帯に広まったが、隆信の死後、息子の松浦鎮信の時代には、キリシタンへの弾圧が厳しくなった。
有馬の殉教者(8名)島原藩の藩主であった有馬晴信の受洗によって、この地のキリシタンは増加し、その数は数万人に及んだという。しかし、岡本大八事件により晴信が流罪となり、その家督と所領が息子の直純に移ると状況は一変。領主であり、徳川家康の外曾孫・国姫を側室に持つ直純と、長崎奉行長谷川左兵衛によって迫害が行われた。
天草の殉教者(1名)
京都の大殉教(52名)江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が上洛の折、京都でキリシタンの大規模な処刑を命じた[5]。方広寺門前の正面橋近辺で、彼らを方広寺大仏(京の大仏)に向かいあうように磔にし[6]、火あぶりで処刑した。正面橋東詰には現在「元和キリシタン殉教の地」という碑が建てられている。聖母女子短期大学教授の三俣俊二は、キリシタンを通常の刑場でなく、大仏門前で処刑したのは、彼らに対するせめてもの情けだったのではないかとしている[6]。宣教師ジラン・ロドリゲスの著したイエズス会年報には「ミヤコの東部を囲み南に向かって流れる川(鴨川)の近くに処刑のための十字架を立てた。十字架は有名な大仏に向かいあっていた。この大仏というのは、最も大きな寺院で、日本で最大で、最も豊満な仏である。」という記事がある。
小倉・大分・熊本の殉教者(加賀山一族18名)
江戸の殉教者(1名)広島の殉教者(3名)
雲仙の殉教者(29名)
米沢の殉教者(53名)→詳細は「北山原殉教遺跡」を参照
長崎西坂の殉教者(2名)
その他(司祭4名)
脚注
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