Mulatu Astatke
ムラトゥ・アスタトゥケ(2014年)
基本情報 生誕
(1943-12-19 ) 1943年 12月19日 (81歳) エチオピア 、ジンマ ジャンル
エチオ・ジャズ 職業
器楽奏者、作曲家、編曲家 担当楽器
ヴィブラフォン 、 コンガ 、パーカッション、キーボード、オルガン 活動期間
1963年 - 共同作業者
ブラック・ジーザス・エクスペリエンス、ザ・ヘリオセントリクス
ムラトゥ・アスタトゥケ (アムハラ語 :ሙላቱ አስታጥቄ、英語 :Mulatu Astatke 、フランス語:Mulatu Astatqé 、1943年 12月19日 - )は、エチオピア の音楽家 。「エチオ・ジャズ」の生みの親として知られている。ムラトゥ・アスタツケ 、ムラトゥ・アスタケ とも表記される。
人物
エチオピアのジンマ 市出身。ロンドン 、ニューヨーク 、ボストン で音楽教育 を受け、ジャズ とラテン・ミュージック をエチオピア伝統音楽と融合させた「エチオ・ジャズ」と呼ばれるスタイルを作り出した。
演奏楽器としては主にヴィブラフォン とコンガ を演奏するが、パーカッション やキーボード 、オルガン の使用など、様々な新しい要素をエチオピアのポピュラー音楽 へもたらした。
作品は主にインストゥルメンタル であり、エチオピアの音楽的黄金期である70年代にリリースされたインストゥルメンタル・アルバムの3つ全てに参加している。[ 1]
経歴
初期(50〜70年代)
1950年代後半、ムラトゥは工学 を勉強するためにイギリス のウェールズ へ留学した。しかし、工学を勉強する代わりにウェセックス のリンディスファーン大学 (英語版 ) に入学し、のちにロンドン のトリニティ・カレッジ・オブ・ミュージック(現:トリニティ・ラバン・コンセルヴァトワール・オブ・ミュージック・アンド・ダンス )で音楽 の学位を取得する。ロンドンではジャズ・ヴォーカリスト兼パーカッショニストのフランク・ホルダー (英語版 ) と共同活動を行っている。[ 2]
60年代になり、ムラトゥは活動の拠点をアメリカ合衆国 に移し、ボストン のバークリー音楽大学 に初のアフリカ大陸 出身の生徒として入学する。同学で、ヴィブラフォン及びパーカッションを学んだ。
アメリカ在住中に、ムラトゥはラテン・ジャズ に関心を持ち、初の2枚組アルバムとなる『Afro-Latin Soul, Volumes 1 & 2』をニューヨーク で1966年に録音した。本作はムラトゥのヴィブラフォンを主役とし、ピアノ とコンガが後ろでラテン・リズムを奏でるといった構成になっている。スペイン語 の歌曲である『I Faram Gami I Faram』を除いては、全てインストゥルメンタルである。
このアルバムは同時代のラテン・ジャズのアルバム から傑出しているとまでは言えないが、ムラトゥの後の作品の特徴と言えるものが垣間見える。このアルバムにより、コンガ やボンゴ をエチオピアのポピュラー音楽に持ち込んだ。[ 3]
ムラトゥ・アスタトゥケ、2005年、世界情報社会サミットにて
1970年代初期には、アメリカで活動を行いつつ、エチオピアでも音楽活動を行うようになり、彼が「エチオ・ジャズ」と呼ぶ新しい音楽スタイルを母国に紹介した。この時期にエチオピア・アメリカの両国で著名なミュージシャンと共演を行っている。
エチオピアの歌手マフムード・アフメド(Mahmoud Ahmed)の楽曲の作編曲・演奏に参加するほか、デューク・エリントン 楽団の1973年のエチオピア公演でスペシャルゲストとして参加した。[ 4]
ムラトゥ・アスタトゥケ、イーザー/オーケストラとのコルゲート大学公演前(2005年、ニューヨーク、ハミルトン)
1972年に、ニューヨークで代表作となる『Mulatu of Ethiopia』をレコーディング。また、エチオピアではアムハ・エシェテ(Amha Eshèté)が立ち上げたレーベル「アムハ・レコード」より、シングル作品を数本リリースしたほか、1974年にアルバム『Yekatit Ethio-Jazz』をリリースしている。
エチオピアの歌手であるマフムード・アフメド、トラフン・ゲセセ(Tlahoun Gèssèssè)、アレマイユ・エシェテ(Alèmayèhu Eshèté)などの同時代の作品にも、ジャズやラテン楽器の使用など、ムラトゥの影響は見られる。
ムラトゥ・アスタトゥケ、ザ・ヘリオセントリクスとの共演(2009年、ローマ)
1975年、エチオピア帝政 が廃止され軍事政権の時代になるとともに、アムハ・レコードは活動停止を余儀なくされ、所属ミュージシャンの多くはエチオピア国外に亡命 した。ムラトゥはその後もしばらくエチオピアにとどまり、ハイル・メルギア&ザ・ワリアス(Hailu Mergia and the Walias Band)の1977年のアルバム、『Tche Belew』にヴィブラフォンで参加している。[ 1] しかし80年代になると、ムラトゥの音楽の存在は国外では忘れられてしまった。
近年の再評価(90年代〜)
1990年代、レア・グルーヴ ・ムーブメントの高まりとともに、レコードコレクターによってムラトゥの70年代の音源が再評価され、過去音源のコピー盤が出版されるようになった。
1998年より、フランス ・パリ のレーベル である「ブダ・ミュージック(Buda Musique)」のプロデューサー、フランシス・ファルセトにより、70年代エチオピア音楽のコンピレーション・アルバム『エチオピーク(Éthiopiques)』シリーズがリリースされる。
このシリーズのうち、ムラトゥの作品を紹介したアルバム『Éthiopiques Volume 4: Ethio Jazz & Musique Instrumentale, 1969–1974, Mulatu Astatke』が注目され、ムラトゥの音楽は世界的に聴かれるようになった。[ 5]
ムラトゥ・アスタトゥケ、ブラック・ジーザス・エクスペリエンスとの共演(2015年、アディスアベバ)
また、アメリカの映画監督ジム・ジャームッシュ の作品『ブロークン・フラワーズ』(2005年)でムラトゥの音源が使用されたことにより、さらにヨーロッパ・アメリカ世界でも注目されることとなる。
ヒップホップ にもムラトゥの音楽は影響を与え、ナズ 、ダミアン・マーリー 、カニエ・ウエスト 、カット・ケミスト 、マッドリブ などの作品にムラトゥ音源のサンプリング が使用されている。
日本との関わりについては、2013年のフジロックフェスティバル で初来日公演を行った。[ 6] また、2024年7月6日には東京・立川で行われたフェスティバル・フルージーニョに8人編成のバンドで参加し、約11年ぶりとなる来日公演を行った。[ 7]
ディスコグラフィー
リーダー作品
Maskaram Setaba 7" (1966年、アディス・アベバ・レコード、アメリカ)
Afro-Latin Soul, Volume 1 (1966年、アメリカ)
Afro-Latin Soul, Volume 2 (1966年、アメリカ)
Mulatu of Ethiopia LP (1972年、ワーシー・レコード、アメリカ)
Yekatit Ethio-Jazz LP (1974年、アムハ・レコード、エチオピア)
Ethio Jazz: Mulatu Astatke Featuring Fekade Amde Maskal (1974年)
Plays Ethio Jazz LP (1989年、ポルジャズ、ポーランド)
Assiyo Bellema (1994年)
Mulatu Astatke
Mulatu Steps Ahead 、イーザー/オーケストラとの共演 CD/2xLP (2010年、ストラト、ドイツ)
Sketches of Ethiopia Vinyl, LP (2013年、ジャズ・ヴィレッジ、フランス)
参加作品
Tche Belew - ハイル・メルギア&ザ・ワリアス(1977年、カイファ・レコード、エチオピア)
Inspiration Information - ザ・ヘリオセントリクス(2009年)
Cradle Of Humanity - ブラック・ジーザス・エクスペリエンス(2016年)
To Know Without Nothing - ブラック・ジーザス・エクスペリエンス(2020年)
コンピレーション・アルバム
Ethiopian Modern Instrumentals Hits LP (1974年、アムハ・レコード、エチオピア)
Éthiopiques, Vol. 4: Ethio Jazz & Musique Instrumentale, 1969–1974 CD (1998年、ブダ・ミュージック、フランス)
The Rough Guide to the Music of Ethiopia (2004年、ワールド・ミュージック・ネットワーク)
Broken Flowers サウンドトラック(2005年、デッカ・レコード)
New York–Addis–London: The Story of Ethio Jazz 1965–1975 (2009年)
出典
脚注
参考文献
鈴木裕之, 川瀬慈 『アフリカン・ポップス!――文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(2015)
外部リンク