上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 1978年(昭和53年))は、大阪府出身のゴルフ場設計者。元競泳日本代表選手。100m背泳ぎ元日本記録保持者。
人物
上田治は、大阪府茨木市に、1907年(明治40年)生まれ、旧制茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)、旧制松山高等学校(後身校・愛媛大学)を卒業、京都帝国大学農学部に学んだ[1]。旧制茨木中学校時代水泳部で活躍した[1]。100m背泳ぎで3度日本記録を更新し、極東選手権競技大会では1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)にかけて100m背泳ぎ3連覇を達成した[2][3][4][1]。
1930年(昭和5年)、「廣野ゴルフ倶楽部」(兵庫県)のコース設計で来日したチャールズ・ヒュー・アリソンは、コース設計図を作成した上で帰国した[1]。上田は、廣野ゴルフ倶楽部の造成工事に加わった、ゴルフは知らなかったが大学で林業や造園学を学んだことを買われ、造成現場で助手として手伝った[1]。上田は、廣野ゴルフ倶楽部が開場した後も、嘱託として残りグリーンキーパーとして働いた[1]。
1936年(昭和11年)、第11回ベルリンオリンピック競技大会で、水泳の審判員として参加、大会終了後は、欧米のゴルフ場を渡り視察した[1]。1940年(昭和15年)から1954年(昭和29年)の間、廣野ゴルフ倶楽部の支配人を務め、大戦中に滑走路や農地になったコースを、アリソンが描いた設計図を見ながら復元した[1]。
後日、上田治にとって、アリソンの元で働いた影響や、スコットランドで得た知識は大きかった[1]。土木建設機械を駆使して土を動かし大地を造り、そこに変化に富んだコースを造り戦略性を高める手法である[1]。一方では、造園技術で日本古来の様式ともいえる借景の手法を取り入れている[1]。
井上誠一は「霞ヶ関カンツリー倶楽部」(埼玉県)で、上田治は「廣野ゴルフ倶楽部」で、アリソン設計のコース造成に加わったことで、コース設計家へと進むきっかけになった[1]。井上と上田は良く比較され、東の井上、西の上田と、作風からは柔の井上、剛の上田とも評される[1]。また、井上はゴルフ用地選びに厳格で、依頼されてもゴルフ場に向かないと思った土地には決して造らなかったが、上田は「難しい用地でも造るのがプロの仕事」と言って引き受けるという対照的な面があった[1]。
主な設計コース
- 1934年(昭和9年)
- 1936年(昭和11年)
- 「信太山ゴルフ倶楽部[5]」大阪府和泉市(1944年(昭和19年)閉鎖[6])
- 1937年(昭和12年)
- 1953年(昭和28年)
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
- 1973年(昭和48年)
- 1977年(昭和52年)
上田治の設計図
エピソード
脚註
著書
- 『造園技術 設計・施工』、関口鍈太郎編著、「ゴルフ場(上田治) 」、東京 養賢堂、1961年、2021年2月28日閲覧
関連文献
- 『近代ゴルフ』、「コース設計者の横顔 三十年の経歴 上田治氏」、東京 自研社、1961年5月、2021年2月28日閲覧
- 『日本のゴルフ100年』、久保田誠一著、「上田治と丸毛信勝」、東京 日本経済新聞社、2004年7月、2021年2月28日閲覧
- 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「重機を駆使して大地を削り、変化を富ませ戦略性を高めた」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年3月1日閲覧
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