丸山 正雄(まるやま まさお、1941年6月19日 - )は、日本のアニメーションプロデューサー[1]。元・株式会社マッドハウス取締役社長、現・MAPPA代表取締役会長、スタジオM2代表取締役社長[1][2]。
2002年に第7回アニメーション神戸特別賞[4]、2003年に第23回藤本賞奨励賞をそれぞれ受賞した[5]。
来歴
1941年、宮城県塩竈市に生まれる[1]。
法政大学文学部を卒業後、やりたいことが見付からずに1年ほどフリーターのようなことをしていたが、知人の紹介で1965年に虫プロダクション(旧虫プロ)にアニメの会社とは知らずに入社する[6][7][注 1]。
1972年、経営危機を迎えた虫プロから出崎統、りんたろう、川尻善昭ら、その後の日本のアニメ文化を牽引することになる作り手たちと共に独立して有限会社マッド・ハウス(現:株式会社マッドハウス)を設立、1980年には代表取締役社長に就任する[6][8][注 2]。以降、数多くのOVAやテレビシリーズ、劇場作品の企画・プロデュースを手掛ける。
1993年公開の川尻善昭監督の映画『獣兵衛忍風帖』が、北米で『Ninja Scroll』というタイトルでビデオ発売され、50万本近い売上を記録するヒットとなった[9][10][注 3]。
1998年公開の今敏監督の映画『パーフェクトブルー』が、日本公開に先駆けて海外の映画祭などで上映され、各地で称賛を浴びる[12]。様々な賞を受賞し、世界21ヶ国での販売ライセンスを獲得した[12]。
2002年公開の今敏監督の映画『千年女優』が、ドリームワークスにより世界配給される[13]。
2006年、今敏監督の映画『パプリカ』が公開され、第63回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品される[13]。同年、細田守監督の東映アニメーション独立後初の映画『時をかける少女』が公開される[8][注 4]。原作者の筒井康隆から『パプリカ』映像化の許諾を受けた時、同時に『時をかける少女』の許可も得ていた丸山は、細田がスタジオジブリの『ハウルの動く城』の監督を降板して東映に出戻ったすぐ後から彼に監督をさせようと接触していた[14][15][16]。
2010年8月14日、今敏が急逝する[13]。丸山は『パプリカ』公開後から今監督の次の映画『夢見る機械』の準備を進めていたが、これによって制作は中断したままとなっている[17][18]。今の死後、4〜5年ほどは他の監督に引き継いでもらって完成させることを考えていたが、資金集めが上手く行かずにプロジェクトは中断。その後は資金の問題よりも「誰が今敏の才能を引き継ぐことができるか」という問題に直面し、やめることを決断した[19][20]。
2011年6月にマッドハウスを退職すると、70歳にして阿佐ヶ谷に新たなアニメ制作会社・MAPPAを設立する[2][8]。もともとはマッドハウス時代に担当した片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』の後で次の作品として企画されていたのを引き継いだもので、設立当初からスタジオには、片渕須直監督作『この世界の片隅に』の制作ルームが置かれていた[2][8]。しかし、資金が全く集まらず、制作は難航したが、2016年にようやく公開されると、日本国内では最長となる1133日連続ロングラン上映となり、累計動員数210万、興行収入27億円を突破するヒット作となった[2][21]。MAPPA制作の最初のアニメ『坂道のアポロン』では、マッドハウス時代から何か一緒にやろうと話をしていた渡辺信一郎に声をかけた。当時、3年ほど仕事をしていなかった渡辺に、「君のような人が3年も仕事していないのは良くない」と監督を薦めたところ、「大塚学と組みたい」と言ってきたので、プロデューサーとして大塚もMAPPAに来ることになった[19]。
2016年4月、プリプロダクション専門のアニメ制作会社・スタジオM2を設立する[22]。MAPPA代表取締役の座を設立メンバーの大塚学に譲って自身は会長に退くと、新たに立ち上げたスタジオM2の社長に就任した[2][注 5]。
2022年6月19日、81歳の誕生日でもあるこの日に生前葬を行った[23][注 6]。
人物
日本のアニメ業界の黎明期からプロデューサーとして活躍している一人であり、「マッドハウス」や「MAPPA」など、有名アニメスタジオの設立者としても知られる[26][27]。50年以上にわたって日本アニメの第一線に携わり続け、多くのクリエイターの才能を見出し、作品を企画・プロデュースすることで業界を支えてきた[1]。
丸山のプロデューサーとしての能力はアニメ業界随一と言われ、川尻善昭監督の『妖獣都市』『獣兵衛忍風帖』『バンパイアハンターD』、今敏監督の全作品(『パーフェクトブルー』『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『パプリカ』)、細田守監督の『時をかける少女』『サマーウォーズ』、片渕須直監督の『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』など、ヒットメーカーたちの代表作・出世作を企画・プロデュースしている[28][29]。
特に人材の才能を見抜き、起用する力はずば抜けており、彼がピックアップして世の中に送り出した才能としては、前述の今敏、細田守、片渕須直らがいる[28]。2010年に他界した今敏については、全劇場作品にプロデューサーまたは企画で関わっており、亡くなる直前まで制作を進めていた映画『夢みる機械』でもプロデューサーを務めることになっていた[19]。細田には、スタジオジブリの『ハウルの動く城』の監督降板で挫折して東映アニメーションも辞めることになった後に、フリーになって最初の劇場作品の監督のチャンスを与えている[注 7]。またMAPPAは、片渕監督の『この世界の片隅に』をどうにかして世に出そうと設立したものだった[31]。
それ以外にも、湯浅政明(『ケモノヅメ』『カイバ』)、磯光雄(『電脳コイル』)などにかなり早い時期に監督のチャンスを与えている[28]。また、MAPPAの主力監督となった境宗久(『ゾンビランドサガ』)、朴性厚(『呪術廻戦』)、マッドハウス時代の直弟子である山本沙代(『ユーリ!!! on ICE』)も丸山に才能を見出された人間であり、この丸山の名伯楽としての能力がそのままアニメ制作会社としてのマッドハウスやMAPPAのパワーの源泉や躍進の原動力となっている[28]。
手塚治虫については、「カルチャーショックを受けた人。それまで出会ったことの無い、常識の範疇では考えられない人物」「無茶苦茶な人でした。その時その時、自分が良いと思ったようにやろうとするから、昨日と今日で言うことが違う。だから指示を受ける側としては腹が立つこともあった。でもそうやって完成したものが、説得力があってものすごく面白いわけです」と回顧し、その魅力に取り付かれたせいでアニメーションの世界から抜けられなくなったと語っている[6][7]。
マッドハウス初期に大きな影響を受けたクリエイターに、出崎統監督と平田敏夫監督の名前を挙げ、「スタジオの両輪だった」と語っている[32][33]。
大友克洋を彼がキャラクターデザインを担当した映画『幻魔大戦』(1983年)の後でアニメの実制作に誘い、オムニバス映画『迷宮物語』の一篇「工事中止命令」でアニメ監督デビューに導いた[34]。
梅津泰臣の『ストップ!! ひばりくん!』(1984年)の作画監督回を見てマッドハウスに引っ張り、川尻善昭のもとで『SF新世紀レンズマン』を担当させて彼のブレイクのきっかけを作った[35]。
雨宮慶太を特撮物だけでなく日本のいろいろなエンターテインメントの中でも特別な存在であると考えており、2014年に彼の原作による特撮ドラマ『牙狼〈GARO〉』シリーズが10周年を迎える際にオファーを出し、シリーズ初のアニメ作品として『牙狼〈GARO〉-炎の刻印-』を制作した[19][36]。
制作会社については「予算を守ってつくることも大事だけれど、新しいことにもチャレンジしていかなければいけないと思う」と語っている[32]
「最初に井戸を掘った人は偉い」という考えを持ち、どんなジャンルでも最初にやった人が尊敬すべき人だと思っている[17]。
丸山にとっての「面白い」は幅が広く、作品ごとに別の意味での面白さを感じている[17]。それぞれの作品ごとに質が違うので、「真面目なものでもフザけたものでもそれぞれが面白ければいい」というのが丸山の基本ラインであり、ほかの会社がどんな作品をつくっているかはあまり気にならない[17]。
自分のプロデュース作品については、「これはダメかも知れない」「企画にならないかも知れない」というよその会社で断られたような企画が自分のところに来ると「何とか形にしたい」とその気になったり、断られた理由がわかると「ならば何とかしてみせよう」とやる気になってしまったりする傾向があると分析している[17]。
プロデューサーという立場ではあるが、本人のメディア露出は少ない。本来、取材を受けるべきは監督や絵を描く人など実際に現場で頑張っている人たちであって、基本的に縁の下にいる自分たちプロデューサーなどが自分で作品を作ったような顔をすべきではないと思っているからである[37]。
アニメーションとはチームプレイであり、自分の世界観だけを主張する人間は一人で作業すればよいと思っている[37]。ただし、新人だろうがベテランだろうが相手を言い負かして「自分はこうしたいんだ」というのを周りに納得させることが出来れば、自分はその人になるべく頑張ってもらい、余計なものが挟み込まれそうになったら必ずそれを排除するとも語っている[37]。アニメの制作では、団体の総意としてどういう方向へ行くか、その幅振りや方向付けをするのが監督やプロデューサーであるが、誰かの個人的な意思が強く働くか働かないか、どの選択肢が良いかはケースバイケースで、作品によってもタイミングによっても変わるし、同じ監督であってもチームが違えばまた変わってしまうこともあり得ると考えている[37]。
丸山が常々言っていることの一つに「魅力ある欠陥商品を作りましょう」というものがある[37]。予算、時間、人、そしてそれぞれの組み合わせやさらなる条件の追加により、欠陥商品が生まれるのは止むを得ないし、完璧な作品などというものはできるはずがないが、お金をもらって仕事をしている以上、完璧に近づけるための努力はする[37]。ただし、作品に必要なのはどこかに欠陥があっても「魅力がある」と思えるものかどうかということであり、だからこそ欠陥商品であることを恐れるのではなく、魅力があるかないかについてこだわるべきだと語っている[37]。
丸山正雄の名前が「設定」としてクレジットされている場合、初期の一部の作品を除いて制作進行や設定進行が行う一般的な設定とは全く意味が異なるものである。丸山の行なう「設定」とは、大きく言えば作品の基本構成や人員配置を行なうこと[38]。丸山自身が監督・作画監督・美術監督の三名の組み合わせを選び、作品の構成・テーマ・映像表現など作品の根幹をなすイメージを提示し、クリエイティブな面でもプロデュースすることにより、より良い作品を創作する事を意味する。初めは監督よりも前に作品全体のレールを敷き、それを監督に渡す仕事だったのが、その後、人材派遣までもやるようになった[38]。
趣味は料理。普段の住居のほかにマンションをひと部屋持ち、そこで自分が市場で仕入れた食材を料理して人をもてなすほか、制作現場でも手料理を振る舞うことで知られている[39][40]。
アニメ業界の内幕を描いたテレビアニメ『SHIROBAKO』に登場する架空のアニメスタジオ「武蔵野アニメーション」の丸川正人社長は、丸山がモデルになっている[29][39]。
主な参加作品
テレビアニメーション
OVA・短編
劇場アニメーション
受賞歴
その他の活動
- JUNK BOY - 1987年にマッドハウスによりアニメ化された際にゲスト声優を務める。
脚注
注釈
- ^ 当時はテレビアニメーションの創成期であり、そのパイオニアである手塚治虫率いる虫プロでは人手はいくらあっても足りないくらいで、寝床と食事さえあれば給料に文句を言わずに24時間働ける者を募集していたおかげで入社できた。丸山は、後から思えば手塚治虫と一緒に仕事が出来るなんて光栄な事だが、当時は特にやりたい仕事だったわけではなく、逆にいつでも辞められると思っていたので、寝る間もないような過酷な環境でも耐えられたのだと語っている。
- ^ 2000年まで。
- ^ 2014年時点でビデオグラム(ビデオ、DVD、Blu-ray Disc)の販売総数は90万本を突破している[11]。
- ^ 両作品の制作は同時期だったので、実際の制作プロデュースはそれぞれ別の人間に任された[14]。
- ^ 設立の目的は、75歳を迎えた丸山が、最低でもあと2本は自分ならではの大物企画を実現させたいと考え、もし彼が途中で倒れたとしても若いプロデューサーたちがフォローして企画だけは続行できるようにストーリーラインなどの土台を固めて準備を万端にしておくことにあった。
- ^ 総合企画・司会進行はりんたろう、音楽監督は川村竜が務めた。会場にはアニメ制作関係者、漫画家、声優、音楽関係者などが集まり、盛大に明るく執り行われた。丸山は白装束を纏い、白塗りの顔におてもやんのような紅をさして参列者を笑顔にしていた。なお戒名は「〇霧 奴絵夢院 雲居士」(まるきり どえむいん うんこじ)を授かった[24][25]。
- ^ 『ハウルの動く城』降板後、失意の細田は富山に戻って母親の介護をしながらアニメとは別の仕事をすることも考えていた[30]。
- ^ a b 朝木夢二の名義。
出典
参考文献
- 「インタビュー「この人に話を聞きたい」。『デジモンアドベンチャー』までの道のり。」『アニメージュ 2000年4月号』、徳間書店。
参考文献
関連項目
外部リンク
ビジネス
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先代 網田靖夫
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マッドハウス 代表取締役社長 第2代:1980年 - 2000年
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次代
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先代 (設立)
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MAPPA代表取締役 初代:2011年 - 2016年
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次代 大塚学
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先代 (新設)
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MAPPA 代表取締役会長 初代:2016年 -
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次代 (現職)
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先代 (設立)
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スタジオM2 代表取締役社長 初代:2016年 -
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次代 (現職)
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