久我 通久(こが みちつね)は、江戸時代後期の公卿、明治・大正時代の華族、政治家。侯爵[1]。貴族院議員[1]。元老院議官、宮中顧問官、宗秩寮総裁、東京府知事などを歴任。和歌や書道、謡曲、歌詞などに堪能な趣味人としても知られた。
経歴
京都出身。内大臣・久我建通の長男。母は後藤言中の娘の松島。
嘉永元年(1848年)、従五位下。嘉永2年(1849年)、従五位上。嘉永3年(1850年)、正五位下。嘉永4年(1851年)、従四位下。嘉永5年(1852年)、従四位上・侍従。嘉永6年(1853年)、正四位下。安政元年(1854年)、元服、左近衛権少将。安政2年(1855年)、御遷幸に左少将朝臣として参加。安政4年(1857年)、右近衛権中将。安政5年(1858年)、従三位。安政6年(1859年)、正三位。万延元年(1860年)、踏歌外弁。慶応3年(1867年)、権中納言。
明治元年(1868年)1月、明治新政府参与。2月、権大納言、大和国鎮撫総督となる。7月、東北遊撃軍将。8月、海路越後国に赴き、奥羽鎮撫惣督を援け、転戦して鶴岡に至り、東北平定。11月、東京に凱旋。三等陸軍将。明治2年(1869年)3月、箱館軍の内地侵入を防ぐため鎮撫惣督として仙台に至り、騒擾を鎮定。7月、陸軍少将。11月、兵部少輔。その後、元老院議官などを歴任。
明治17年(1884年)侯爵。明治23年(1890年)2月、貴族院侯爵議員に就任し[2]、同年10月20日、麝香間祗候となる[3]。その後、宮中顧問官や東京府知事、宗秩寮総裁などを歴任。明治36年(1903年)6月、従一位。1908年12月11日、再び麝香間祗候となる[4]。1921年(大正10年)10月7日に隠居し、侯爵、貴族院侯爵議員の資格が消滅した[5]。
大正14年(1925年)1月10日歿。享年84。
栄典
- 位階
- 勲章等
家族・親族
久我家
- (京都府、東京牛込新小川町[1](現東京都新宿区))
- 文化12年(1815年)生 - 明治36年(1903年)9月没
- 明治6年(1873年)生[13] - 昭和25年(1950年)没[13]
- 明治32年(1899年)5月生[1] - 没
- 通顕[1](庶子男常通庶子男、生母・東京平民鬼頭まさ[1]、侯爵、貴族院議員)
- 通秀(男爵津守國榮の養子となる[14])
- 通利[14](経営評論家)
- ミチ子[1](北海道人五十嵐佐市に嫁す[14])
- 千萬子(東京府人仙石吉之助の養子となる[14])
- 松子(東京府人中根半湖長男克に嫁す[14])
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『人事興信録. 4版』(大正4年)コ四一
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』16頁。
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 『官報』第7640号、明治41年12月12日。
- ^ 『官報』第2760号、大正10年10月12日。
- ^ 『官報』第5997号「叙任及辞令」1903年6月30日。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第4196号「叙任及辞令」1897年6月29日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第3715号「叙任及辞令」1925年1月13日。
- ^ a b 『日本の名家』239頁
- ^ a b c d e 『人事興信録. 第11版』(昭和12年)上コ一一九
参考文献
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
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