蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名、明治・大正時代の華族。阿波国徳島藩第14代(最後)の藩主。文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。号は誠堂、霰笠[2]。徳川家斉の孫。
経歴
第13代藩主・蜂須賀斉裕(第11代将軍・徳川家斉の二十二男)の次男。母は山本氏の娘、たま。幼名は氏太郎。
従兄弟で第14代将軍の徳川家茂より偏諱を授かり茂韶と名乗る。慶応4年(1868年)1月6日の父の急死により家督を継ぐ。斉裕の危篤から死去が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたと言われている。
明治維新後はオックスフォード大学に留学した。明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで駐フランス公使(スペイン・ベルギー・スイス・ポルトガル公使も兼務)。
1884年(明治17年)、侯爵となる。
第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、文部大臣などを務め、麝香間祗候の待遇を受ける。
1891年(明治24年)7月21日、貴族院議長となり、1896年(明治29年)10月3日まで務めた。
この間、渋沢栄一と企業を設立。渋沢が経営を担当し、蜂須賀茂韶は資金を調達した。
1879(明治12)年8月に東京海上保険(東京海上日動火災保険)を創立。茂韶が初代社長で渋沢と三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が相談役を務めた。
ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)の前身「貴賓会」は1892(明治25)年、茂韶、渋沢、三井物産社長の益田孝らが発起人となり創立。茂韶が会長、渋沢が幹事長となった。
日本鉄道株式会社(JR東日本)や大阪紡績株式会社(東洋紡)、東京人造肥料株式会社(日産化学)なども創立に関わった。
藩祖・蜂須賀正勝を大名に引き立てたのは豊臣秀吉であった縁から、旧福岡藩主家当主黒田長成(藩祖黒田孝高を大名に引き立てたのはやはり秀吉である)を会長として結成された豊国会の副会長を務め、豊国会が京都東山の豊国神社に豊臣秀吉廟を建立した折には、黒田とともに燈籠を寄進している。
芝区三田綱町の蜂須賀家所有地の一部は慶應義塾に売却されて綱町グラウンドとなり、明治36年(1903年)11月21日に第1回早慶戦が行われた[4]。
法号は大源院殿。墓所は徳島市の万年山。
年譜
栄典
位階
勲章等
外国勲章佩用允許
系譜
- 父:蜂須賀斉裕(1821年 - 1868年)
- 母:たま(山本氏)
- 先妻:斐姫(1852年 - 1929年) - 蜂須賀隆芳の娘
- 後妻:蜂須賀随子(1854年 - 1923年) - 徳川慶篤(水戸藩第10代藩主。徳川慶喜の同母兄)の長女。1877年に結婚
- 妾:某氏
- 妾:萩原京 - 正室の随子の侍女で随子公認の側室。茂韶は月水金を随子の暮らす本邸で、残りを京の暮らす高輪邸で過ごしたが、京は随子の代わりに夜伽を務める公認の側室でもあったため、本邸にも部屋を持っていた。
蜂須賀農場
茂韶が1893(明治26)年に開設した。深川・雨竜・秩父別・新十津川にまたがる大規模な小作制農場で、莫大な利益を蜂須賀家にもたらしたが、茂韶の死後、1921(大正10)年から10年余りにわたり小作争議が争われ、跡を継いだ正韶らを疲弊させた。
盗賊伝説について
司馬遼太郎『街道をゆく43 濃尾参州記』に、以下の記述がある。
- 茂韶が宮中に参内して応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった紙巻タバコを1本失敬したところ、やってこられた明治天皇がそれに気づかれ、諧謔をもって「蜂須賀、先祖は争えんのう」と嬉しそうに茂韶をながめられたという。これは明治天皇が『太閤記』の記述に基づき阿波の徳島藩主蜂須賀氏の初代蜂須賀正勝が盗賊あがり(土豪あがり)だと思っていたためだろう。これがきっかけとなり、蜂須賀家では歴史学者の渡辺世祐に依頼して、正勝が盗賊ではないことを立証してもらったという。
また、司馬の著書に先立つ河盛好蔵『人とつき合う法』には、名前は伏せてあるが(H侯爵家となっているが、武家の侯爵家でイニシャルがHになるのは他に細川家しかない)、明らかに蜂須賀家を指して、先祖が夜盗として有名であったが、何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたいと、喜田貞吉に依頼したという記述がある。しかし喜田は調査の結果、「H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答したため、それでは困ると沙汰やみになったという。
ただ、茂韶の父斉裕が11代将軍家斉と皆春院の間に生まれた子なので、茂韶に蜂須賀正勝の血は流れていない。また、明治天皇の祖父・仁孝天皇の生母・東京極院の母は池田仲庸の娘であり、池田仲庸の曽祖父池田光仲の母は蜂須賀至鎮(正勝の孫)の娘・三保姫であるため、明治天皇と正勝の間にも系譜上のつながりがある(実際は勧修寺婧子と数計子に血のつながりがあるかは不明)。
- 蜂須賀正勝━家政━至鎮━三保姫━池田光仲━仲澄━仲央━仲庸━数計子=勧修寺婧子━仁孝天皇━孝明天皇━明治天皇
関連項目
事柄
人物
脚注
参考文献
外部リンク
文部大臣 (1896年 - 1897年) |
---|
再編前 |
|
---|
再編後 | |
---|
省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。
|
|
---|
官選 |
江戸府知事 | |
---|
東京府知事 | |
---|
東京府大参事 | |
---|
東京府権知事 | |
---|
東京市長 | |
---|
東京都長官 | |
---|
|
---|
公選 |
|
---|
カテゴリ |
|
---|
全権公使(パリ駐在) | |
---|
全権公使(マドリード駐在) | |
---|
全権公使(サン=ジャン=ド=リュズ駐在) |
- 避難先で公使館業務継続
- 矢野真1936-1939
- スペイン内戦終結
|
---|
全権公使(マドリード駐在) | |
---|
全権大使(マドリード駐在) | |
---|
カテゴリ |
蜂須賀氏当主(1868年 - 1918年) |
---|
宗家 | |
---|
|
富田家 | |
---|
蜂須賀氏 徳島藩14代藩主 (1868年 - 1871年) |
---|
|